Sven Morgenstern


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【秘匿】

〚 追憶 〛

___ホテル・カサブランカに交渉に馳せ参じた際、男はいつになく熱が入った説得をしていた。その場に居合わせた秘書も「彼らしくもない早計な踏み込み方」だったと語っている。いついかなる時も冷静で駆け引き上手の雄弁家がなぜそれほどまでにこのホテルに執着したのか。

それは、ホテルカサブランカで過ごした幼き日の『初恋』に関係している。

〚 幕間 〛

幼き日の少年は両親と共にホテルを訪れた。まだろくに語る夢もない1桁の歳だったと記憶している。それはそれは人見知りな性格だった。仕事関係で顔の広い父が連れてくる大勢の友人たちに臆して挨拶も出来ずキッチンに立つ母の後ろに張り付いているような気弱な彼を、父は楽しい旅行の中で多少人馴れさせようと考えた。
そうして両親が善意で計画した小さな冒険が、ホテルカサブランカでの彼女との出会いへ彼を誘う。

ちょうど節目の50周年を迎えるというそのホテル内は、活気に満ち色とりどりの風船と多くのゲストが行き交う。手汗が滲むほど長く繋いでいた手を無理やり離され、少年は震える足で行き交う人を縫うようにしながら広いロビーを彷徨う。所謂スタンプラリー、というものだった。
チェックポイントには歳若い家族連れゲストの思い出作りに"一肌脱ごう"と合意した3人のホテルスタッフが待機していた。子供の小さな歩幅でも30分とかからず全ての場所を回りきれるプランだったのだが、その最後のチェックポイントに立つメイドの元に予定時間を15分超過しても少年が到着しない。連絡を受けて焦った両親と残るスタッフは小さな背中を探し回る。
____少年はどこに消えたのか。

時を同じくして、少年はとある人物の部屋に迷い込んでいた。豪奢な色とりどりのドレスに彩られ、優しいムスクの香りが鼻腔をくすぐるシャンデリアの下で____その女性は泣いていた。少年の知る大人の女性というのは彼の小さな頭を撫でようとするか、ただ嫣然と笑んでいるばかりであったので力のかぎりに慟哭し床に伏すその人には酷く驚かされた。そして、思わず衝動のままに駆け寄ってしまった。

「どうしたの、美しい人。どうぞお手を。」

不慣れなエスコート、めいっぱいの背伸び。真っ赤な顔の小さな紳士に女性は同じく真っ赤な目を向ける。

「嗚呼、嗚呼…お見苦しいところを見せてごめんなさい、小さな王子様。ここは私の寝室で御座いますからお構いなく、扉の外へ。」
「な、成りません…。泣いている女性を放っておくなんて無礼なこと。どうか、僕に理由を。」

少年は引き下がらなかった。ここでこの人を1人にしてはいけないと、本能的に感じていた。女性は、こんな幼い子供に話すべき内容ではないと逡巡したが、名も知らぬ少年だからこそ心を許したのだろう。たどたどしくも語り出す。

「私は、このホテルの現オーナーの妻で御座います。いえ…妻になれる者であると、愚かにも勘違いしておりました。私は、あの方にとってなんだったのでしょうか。」

____女性の名はサロメ・オードリー。
カサブランカ内バーにてイヴニングショーを務める人気ピアニストであり、当時のホテルオーナーと愛人関係にある人物でもあった。本日は愛しの人に呼び出され正式に婚姻関係を結べると思っていた矢先、切り捨てられたとの事だった。 

少年は、この話に幼い義心ながら憤慨を覚える。ただ今の彼にできる復讐などは塵ほども無いことも、持ち前の聡さで理解していた。
故に…出来ることは、この哀しくも美しい女性を小さな身体で抱きしめることだけだった。彼女が泣き止むまで、小さな王子様は柔らかく笑んでその背をさすり続けることにしたのだ。
夢見たのは美しい情景と、約束されたハッピー・エンド。

彼は知らない。
寝物語に聞かされた寓話とちがって現実とは非情なもの。

結局、子供に出来ることなどひとつもなかったのだろう。

この女性は少年の一家がホテルを去った一ヶ月後に自宅で命を絶つ。報道で自死の原因が濁されたのは、彼女自身の希望でもあったのかもしれない。未熟な恋心をそれと認識できないままであったが、この時分かちあった甘やかな秘密は今も男の胸に息づいている。

___あの人のピアノは、今でもあそこにあるだろうか。否、どちらであろうとも構うものか。
あのホテルこそが彼女と出会った美しい舞台であることに代わりなく、替えの利かないかけがえのない場所であることを知ってしまっているのだから。