第九話


⁻ Checking out of Beautiful Memories. ⁻



✧ Side Werner ✧




「…………ぅ、あ……」


 数分前までの乱痴気騒ぎとも言える喧騒が嘘のような静寂と、それが現実であるのをなによりも雄弁に物語る惨状の中でヴェルナーは呻き超えを上げた。


「あぁ…………」


 うつ伏せに倒れていた体を起こすと、立膝を着いた足に伝わる冷たい嫌な感触に思わず目を閉じた。


 見なくても分かる。だが俺は、知らなければ。そうしなければならないんだ。


 ヴェルナーは息を一つ吐くと瞼を開け、ゆっくりと振り返った。


 エルロックかアビゲイルか、どちらのものか分からない血が己の裾から脛辺りまでを赤黒く湿らせている。

 恐らく致命傷故に即死に近いものだったろう。白い大理石におびただしい血が歪な円を描く様は、未だにどこかで燃え続けている地獄の門にも似ている。凄惨、残酷、悲惨、どれでもあり、そのどれでも足りない。


 酷い二日酔いよりはまだましだが、吐き気と頭痛が止まらない。


 二人の死体が自分の無力感に拍車をかける。こんな今になって少しづつ広がっていく忘れていた記憶。

 怒りや無力を混ぜ合わせたような声にならない低い音が、広間に静かに響いた。


 己がホテルに足を踏み入れたあの夜から記憶があったとしてもジェシカが殺人を犯す一人であったと、どの程度の犠牲で気づいたのか。


「そうだ、アイザック……!」


 ホテルでの和やかで賑やかなクリスマスパーティーが頭を過ぎり、倒れる自分が最後に見た果敢に戦う姿を思い出した。


「アイザックは! あいつはどこだ!」


 俺が地獄で目を覚まさなかったのはアイザックがジェシカを止めたからだ。

 現に命ごと凶行を止められた死体がそこに転がっている。


 だがアイザックも無事では済んでいないだろう。


 血の状態と己の症状から考えて軽い脳震盪で無様に気絶すること10分前後だ。彼が深手を負っているならすぐに応急処置をしないければ。


 視線をボールルームの中央から壁に急いで走らせると、かなりの出血と共に壁に凭れ掛かり座り込んでいるアイザックが目に入った。


「アイザック!!」


 咄嗟に立ち上がり駆け寄ろうとするが、地面が沈むような目眩と鋭い頭痛に平衡感覚を奪われテーブルにぶつかり、血に滑りふらつきながらもなんとか一点を目指し足を動かす。


「な……んで……」


 思うように動かぬ身の苛立たしさに舌打ちをしながら辿り着いた彼には、心臓がなかった。

 正確には人間の心臓が収められているはずの場所に、ポッカリと穴が穿っていた。


 心臓のない人間は生きていられない。

 もう、生きてはいない。


「考えろ、考えろ考えろ考えろ考えろ……!」


 思考回路が擦り切れようと痛みなんてどうだっていい。誰が、誰が彼を殺せる。

 ジェシカか?いや、心臓を抜き取ってから死んだにしてはジェシカの傷は致命的過ぎる。相打ちも違う。そもそも彼の心臓がここにはない。


誰だ。誰が、どうやって……。なんで……。

なんでだ……。

俺は、考えなければ。分からなければならないのに。


「考えろ……考えろよ…………」


 度重なる死、今までのホテルで出来事。己の記憶がぷかぷかと煙草の煙みたいにゆっくり纏わりつき浮かび上がり、精神を蝕んでいく。

 心が折れるには、あまりに十分過ぎた。


 俺はまた、逃げるのか……。

 大事なことから、俺の罪から。


 でも、もういい。ここにいたくない。ここじゃなければ、死の濃い場所じゃなければどこだって。


 どのくらいの時間アイザックの前で座り込んでいたのか分からない。

 数分程度だったのかもしれない。だが、ヴェルナーにはもうそれが短かったのか長かったのかも分からなかった。


 ゆっくりと立ち上がると目眩も吐き気も消えていた。

  弱々しい頭の痛みだけが罪に繋がれた楔のようにうっすらと残っている。


 地に足が着いていないような、自分と世界の境界線が曖昧で認識がぼやけているような、他人事のような気持ちがどこに向かうでもなくただ己の足を動かしている。


 そのままボールルームを出るとエントランスを抜け、吹きつける吹雪で重さを増している大きな扉を開ける。

 そうしてヴェルナーはホワイトアウトの中へゆっくりと足を進めた。


ギィィィ、と古めかしい音を立ててエントランスの明かりがゆっくりと消えていった。





✧ Side Gaspard ✧



 エルロックに振り回されていたところコーデルに腹部を刺されたスヴェンの応急手当を任され、少ない実戦経験に尻込みをしたが持っている知識のまま処置を施した。必要な救急道具を階を跨いで運んでくれたりと、アイザックの支援やスヴェンの頑張りもあって、なんとか一命を取り留められた。


 けれどあくまで応急処置の為、警察の到着から直ぐにでも街の病院で治療を受けさせないと危ない状態だ。言い渡すのを躊躇う診断はスヴェンがよくわかっているようで、ただ礼を受けることしかできなかった。その時に握られた彼の手の安心感を、いつか自分が与えられる側にならなければと胸に誓う。


 警察がホテルに辿り着くまでスヴェンの看護兼、非力な女性子供と立て籠もるため201A号室には今ギャスパルの他スヴェンとナジーと、フレデリカが集められていた。


 王様を守るポジションを務めるのは楽じゃない。

 特に、お姫様の遊び相手は重大任務だ。


「ねえいつまでこのお部屋にいるの? デイジーは?」


 広い部屋とは言えかくれんぼは2、3度もしてしまえば隠れ場所がなくなってしまい、宝探しも隠し場所やヒントのネタが尽きてしまい、子供の味方のおもちゃもここにはない。


 小さなレディが立腹して然るべき時間、この一室に籠もっている。


「デイジーさんはきっともうすぐ来るから、それまでカードは……」

「カードもイヤ!二人でオールドメイドしてもどっちがクイーンを持っているか分かるもの!」

「ええ……じゃあ」

「パーラメントもだめよ!二人で順番にエースからキングまでお行儀よくお席についてしまう遊びなんてパーラメントじゃないわ!」

「ええぇ……」


 ギャスパルが提案しようとするとそれを先回りしてフレデリカに怒られてしまう。


 そこから暫く、二人でポーカーはいけない、ホイストは二人ではできないでしょ!と尽く却下されギャスパルが頭を抱えていると、急にフレデリカがなにかを思いついたように顔をぱぁっと明るくさせ声を上げた。


「ギャスパル、なにかお話をして!」

「お話?」

「そう、お話よ!アリスがボートで聞いたような素敵なお話はないの?」


 この部屋に童話は持ってきていないし、なにか創作するにも……いや、とっておきがあるじゃないか。この場所にぴったりのお話が。


「あるよ、僕の大好きなとっておきの素敵なお話が。それにこのホテルにそっくりなお城も出てくるんだ」

「素敵!じゃあお外が見える窓の近くがいいわ。あっちのお部屋に行きましょう!」


 早く早く、と急かされてギャスパルはナジーに同じ号室の続きの部屋にいる事を伝え、せっつかれながらフレデリカの指定する席に腰を下ろした。


「これは僕と姉さんの大好きな物語……『幸運な冒険』」


 本が手元になくても一字一句全て暗唱できる。幼い頃からずっと読んできた今でも大切に読み返す大好きな物語を、このシェブラン城にそっくりなホテルで語る。こんな状況でなければどれほどまでに夢のような、それこそフェアリーテイルのような時間であっただろうか。


 フレデリカは幸運な冒険を語る僕の前で、エメラルドとルビーのような瞳をきらきらとさせ、時には息を呑み、時には思わず声を上げ忙しなく、すっかり物語の世界にいるようだった。


 そう、いつだって物語を読めばその世界に行ける。人魚と歌い、妖精と踊り、ドラゴンと戦い、魔法の杖を振るえばどんな冒険だってできるんだ。



「そして、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました」


 本をパタン、と閉じるように物語の結びの言葉を言い終わると、フレデリカが椅子からぴょんと飛び降り笑顔で両手をパチパチと合わせ小さな、だが全力のスタンディングオベーションを送った。


 とても気に入ったのだろう。自分自身にも覚えがある、物語を開けばすぐ近くにある遠くの世界を夢想するキラキラとした瞳で、フレデリカは矢継ぎ早に質問をはじめた。


「その妖精はイチゴの乗ったケーキは好き?ドラゴンと一緒にお茶はできるのかしら?そのティアラはどんな宝石?頭が重くなっちゃうくらい大きいの?さっきのお花は喋る?その魔法使いは箒も持ってるの?空は飛べる?」


 一つを答えるとすぐ次の質問が飛んでくる。

 出した答えにさらに瞳を輝かせ、ならばならばと深掘りの質問が返ってくる。


 身に覚えはあるが、質問攻撃を繰り出される側がこんなにも大変だったとは。笑顔で答え一緒に考えてくれていた姉を改めて尊敬する。ホテルでの宿泊が終わったら、姉の家にお土産話を持って会いに行く約束をしている。その時にここでの話と一緒に、当時のお礼も言わないとな。


「シェブラン城にもこんな大雪は降る?」

「うーん、どうかな。でも大雪のシェブラン城はきっとこんな感じだよ」


 椅子から立ち上がると窓へと数歩進み、外の極寒を一身に受け止めてひやりとした窓ガラスにそっと手を置いた。


「カサブランカはそんなに似ているの?」


 トコトコとついてきたフレデリカがギャスパルの真似をして横に並び、窓で手をひやりとさせながら吹雪が吹き荒ぶ庭を眺め尋ねた。


「似ている、なんてもんじゃないよ!白亜の城、まさに夢に見ていたシェブラン城と一緒なんだ!」

「ふーん」


 視線をそのままに、フレデリカが尋ねる。


「本物のシェブラン城を見たことある?」

「残念ながら。ここが本物のシェブラン城だったらよかったんだけど」


 視線をそのままに、フレデリカが尋ねる。


「本物のシェブラン城があったら行ってみたい?」

「もちろん! 子供の頃からずっと夢見てたお城に行けるなんてそれこそ夢のようだよ!」


 視線をそのままに、フレデリカが尋ねる。


「本当に?」

「ああ! 本当の本当だよ」


 視線を合わせ、フレデリカがにっこり笑う。


「じゃあ連れて行ってあげる!」




「ここは……」


 横に並んだフレデリカに手を取られたところまでは覚えている。驚き瞬きをしたら、次には目の前に見知らぬ風景が広がっていた。


 瞼を合わせ開いた一瞬で一体なにが起きたのでしょう。

なにも理解できず、ギャスパルはきょろきょろとあたりを見回しました。

 すると、初めて見る風景なのに何故か胸が詰まる様な暖かくなるような、憧憬に似たものを感じました。


 小鳥が歌う穏やかな晴れた空。


 踏みしめる大地の柔らかな感触。


 花の香りが混ざるそよ風の匂い。


 そのどれもを自分は知っている気がする。


 必死に記憶を辿っていると、後からひときは強い風がぴゅうと吹き抜けていき、ギャスパルは風につられてふと振り返りました。


「ここは……!」


 白亜の城だ。

 美しい城壁に気品ある佇まい。

 見間違えるはずがない。このホテルに訪れた理由。幼い頃から夢にまで見た、憧れの城。


「シェブラン城……!シェブラン城だ!」


 物語を読むたびに感じていた興奮が全身を駆け抜け、ギャスパルは全てを忘れて思わずお城に向かって走り出しました。



「宝を贈る貴方に、没薬よりも芳しい夢を……」


 どこか遠くで、


「楽しかったから特別によ!私からの贈り物!」


 フレデリカの声がしました。



 おしまい。







✧ Side Najee ✧



 隣の部屋から響くフレデリカの楽しげな笑い声が、ベッドヘッドに枕を挟み上半身を軽く横たわらせているスヴェンと傍らでそっと手を握るナジーの耳に聞こえてくる。

 この一室だけを切り取ればとても穏やかな時間が流れているように感じる。


「ナジー、君も少し休んだらどうだい。なに、僕は大丈夫、急にいなくなったりはできないしね」


 いつもの茶目っ気にほんの少しだけ苦しそうな呼吸を交えたスヴェンはナジーの手を少し握り返し休息を促した。


 ずっと緊迫したままいつ来るとも知れない助けを待ち続けるのは、とてもではないが心が持たない。ナジーの手から伝わる不安と焦燥がそれを物語っている。

 殺人鬼に直接殺意を向けられたのだから、それは他の宿泊客よりも余計に大きなものだろう。


「いいえ、ありがとう。貴方の隣で私は十分休めています。逆に離れてしまう方が不安になって休めなくなってしまうわ」


 ナジーの不安と焦燥が伝わってしまうように、ナジーにもまたスヴェンの残された時間が繋がれた手から伝わっていた。

 時計の針が進むにつれて僅かにだが少し、また少しとスヴェンの手が冷たくなっていくのを感じる。


 そしてそれはスヴェン本人もよく理解している。己の時間が夜明けを待てないことを。


 お互い理解して、口に出しはしない。この残された時にそんな話をしてしまったなら、きっと悲しみに不安にピンと張った心の糸が切れてしまう。


「なんだか……静かになりましたね」

「ん?ああ、確かにそうかもしれない。ストーリーテラーは別の遊びを始めたのかもしれないね」

「いいえ、音がしないんです。なにも音が聞こえてこない……」


 数分前から唐突に笑い声が消え、人が活動している音が途絶えた。微かな音すら耳に届かず、ギャスパルとフレデリカが二人して急に眠ってしまったと言われる方がまだ納得ができる。


 もしかしたら、隣の部屋でなにかが起きているのかもしれない。


「ナジー!!」


 急にナジーを呼ぶフレデリカの焦ったような大きな声が静寂を破った。


「フレデリカ!今そちらに行きます!」


 やはりなにか良くない事が起きているのだ。

 ナジーは急いで立ち上がると座っている椅子に立てかけておいた杖を掴んだ。


「ナジー」


 繋がれた手を解く前に一瞬、スヴェンが弱くナジーの手を引いた。


「こんなことしか言えなくてすまない。どうか、気をつけて」


 その言葉にナジーは唇に美しい弧を描きゆっくりと手を離すと、一人フレデリカの元へと急いだ。



「フレデリカ!大丈夫ですか!」


 ドアノブを回し木製の扉を開き、声をかけながらゆっくりと杖で探り進んでいく。


「フレデリカ……?」


 人の気配がしない。二人どころか一人分の呼吸音も聞こえてこない。


 いったいなにが起きているの。フレデリカはどこに?ギャスパル様はなぜいないの?


 焦って飛び込んだはいいが、あまりの不可解な空間に戸惑い思わずを止めた。

 まるで幼少の頃妹と行ったホーンテッドハウスに訪れてしまったような心持ちになってくる。この不可解さが、とても怖い。


 思わず踵を返してしまいそうになったその時。


「ナジー、ここよ」


 今までに確かに誰の気配も音もしなかった場所に、急にフレデリカの声が現れた。

 とても強い違和感を纏いながら。


「……っ!」


 どうしてフレデリカの、幼い女の子の声がそんな高いところからするの。


「あら……フレデリカ、探したのよ。とても焦った声で呼ぶのだもの」

「ふふ! ごめんなさい、ギャスパルが急に部屋を出ていったから不安になってしまったの。ベッドまで一緒に戻りましょう!」

「! ……ええ」


 違うこれは、男性の手だ。フレデリカなんかじゃない。これは……誰なの。


 怖い。とても怖い。


 フレデリカの声を発する別のものと繋いでる手を今すぐ振り解いてしまいたい。今すぐ押し込めている悲鳴を上げてしまいたい。


 ここから逃げ出したい。


 だが、隣の部屋には動けずにいるスヴェン様がいる。

 今私が事を荒立てては、女神よりも儚いチャンスもなく確実に二人とも死ぬでしょう。


 あの時私が声を上げなければスヴェン様はこんな事にならなかった。もう、同じ過ちはしない。

 平静を装うのよ。決して戸惑いを悟られないように。

 不可解なものだらけでなにも分からなくても、これだけは分かる。


「フレデリカ、私をスヴェン様のところまで案内してもらえるかしら?」


 今ここでスヴェンさんを一人にしてはいけない。



✧ Side Sven ✧



 いやはや、後5年……いや、5年は盛り過ぎだな。10年若ければここまで衰弱せずに動けていただろう。

 彼女にあんな顔をさせてしまうのなら、歳は取りたくないね。


「こっちよ、ナジー」


 フレデリカの声が近づいてくる。声色から特になにもなかったように伺える。ギャスパルの声が聞こえないのが引っかかるが。


「ああ、フレデリカ心配した…………まさか、何故、君が……」


 思わず声が引きつる。

 フレデリカの声に顔を向けると、恭しくナジーの手を引く旧知の友、20年前に死んだはずのホテルカサブランカ前オーナー、ステファノが寸分違わず変わらぬ姿で立っていた。


「さあ、ナジー嬢。このまま手を前に。彼の手を取って安心させてあげるといい」


 低く響く男性の声色に表情を硬くしながら伸ばされたナジーの手を、スヴェンはそっと手に取り安心させるように親指の腹でさすった。


「一人で怖い思いをさせてしまったね。戻ってきてくれてありがとう」

「ギャスパル様は、消えていて、フレデリカが……」

「そうか……なに大丈夫だ、彼は昔馴染みでね。性根はともかく急に噛みついたりはしてこないさ」

  

 ふと、気がついたようにステファノはナジーの前で腰を折った。


「ああ……挨拶がまだでした。お初にお目にかかる。私は当ホテルの前オーナー、ステファノ=オーウェン。当ホテルカサブランカへお越しいただいたお客様へ私としての挨拶が遅れたこと、重ねて許可なく無遠慮にレディの白き手を取ってしまった非礼を詫びさせていただきたい」

「前……? ですが、先代は亡くなったはずでは……」


 ナジーの困惑した声にステファノは微笑むだけでなにも答えない。


 Mr.ホームズに皆まで聞かなくても察しがついた。彼は恐らく黒幕だ。それと二人でいてはギャスパル君も無事では済まなかっただろう。


「その通りだ。それで、君はスクルージの代役でも頼まれたのかい? 下々の者に随分と酷いことをしているようで驚いたよ」

「彼なら慈善事業で功徳の手が足りないと代理人から連絡が来てね。そして、私は最初の小石を投じただけだ。波紋が作る模様は見ていて実に美しいがね」


 少し喉を締めて笑う姿も、選ぶ言葉もなにも変わらない。

 例え死が偽装でひっそりと生きていたとしても、20年の月日で姿が変わらないはずがない。


 なにか得体の知れないものが、関わっている。それか、我が友が最初から得体の知れないものだったのか。


「それにしても友よ、随分と久しい。顔も見せずにすまなかったな。息災か?」

「お陰様で最高質のベッドで横にならせてもらっているよ。これが息災に見えるのなら眼鏡を新調することを勧めるね」


 ステファノは言葉遊びのような応酬に楽しげな笑い声を上げると懐かしむように目を細めた。


「口と頭の回転は衰えてないようで安心した。でなければ折角のチェスも興醒めと言うものだ」

「は、君この状況で僕にチェスをしろと?」


 逃げることのできない死そのものを象ったような者を前にして、こちらはいつなにが起きるのか喉が張りつくような緊張感に薄い余裕を被せていると言うのに。


 変わらぬ傍若さに、得体の知れない者と言うのも一瞬忘れてしまった。


「そうだ。久々に1ゲームどうかね」


 言うが早いかステファノが指を鳴らすと品のいいオーク材のベッドテーブルが突如としてスヴェンの目の前に現れた。アンティークなのだろう使い込まれてこそ出る色の深みと艶があるチェスボードの上では、スヴェン側に白をステファノ側には黒の駒が整列している。


「最早隠す気もないのか。それは、なんだ、魔法とでも言うやつなのか?」

「親戚にモリガンがいるものでな。友人とのゲームだ、サービスしよう」


 ステファノがさらに指を鳴らすと琥珀色の液体が注がれたクリスタルのグラスがスヴェンの左手に。サイドテーブルにはナジーの分であろう湯気を立てるホットトディーが注がれた白磁のカップが現れた。


 自分と会話をしているこの得体の知れない男は確かにステファノで、有り得もしないことを目の前でさも当然のように行った。所謂タネも仕掛もないのだろう。


 正直信じられない。葬式に参列して土まで被せた友人が歩き喋り有り得ない芸当をやってのけている。人が次々と死んでいくこの異常事態も、この彼が手を引いていれば認められないが理解できる。


 どうやらこの場においては、57年間自分が培ってきた常識は捨て去るのが最良のようだ。


「はぁ、僕も色々と経験してきたんだけどな……。で、これは、オパールと黒水晶か。随分と道楽じゃないか。生前僕と打つ時は精々クリスタルだったのに、出し惜しみしてたのか?」

「最近手に入れた一押しだ。特別な日に取っておこうと思ってな。今日が初陣だ」


 ステファノが片手に赤いワインで満たされたバカラのゴブレットを傾けながら楽しげに笑う。そこには悪意も善意もなく、久々に会えた古い友人との会話を純粋に楽しんでいる一人の人間のように見える。


「それは光栄だ。では、気合と燃料を入れないとな」

スヴェンは琥珀色の液体をぐいと流し込んだ。


✧✦✧


「これは、オリンピアードより緊張するな」


 クイーンを一つ進めスヴェンが苦笑する。


「私も腕が鈍っていないことを願うよ」


 ビショップを進めステファノも、誘った手前恥をかきたくはないと笑った。


コツ、コツ___


 お互いに進める駒がチェス盤に当たる音がリズムよく鳴り続ける。


「ふん、君は相変わらずサクリファイスがお得意なようだ」


 ステファノが白のルークを盤上から退場させると「君も変わらずチェス盤の上に人間を配置するのがお上手なようだ」空いたマス目にスヴェンが駒を進める。


「おっと、これは僕の退場も見えてきたようだね」


 やや白が劣勢の盤上を見てスヴェンが呟いた。


「そうだな、君が安心して退けられるだけ鍛え上げた後任がいるのであれば、バンシーが来ても君の城は盤石だろう。フィロソフィーを同じくする者としては、君の空席を埋めてやってもよかったんだが」

「結局諦められないうちに終わるんだ。買収のことは流してくれてもいいんじゃないか」


 君も根に持つな、と茶目っ気を含んだ視線を寄越されてスヴェンが少し呆れたように答えた。


「考えておこう」

「全くもって君は風を読むだけの老兵にはならないようだ。死してなお……いや、そもそも君には死と言う概念があるのかい?」

「どうだろうな。だが一つ言えるのは、長い時の中で黄金よりもバカラの杯の方が魅力的だと言うことだ」

「確かに、友人として言わせてもらうがとてもギャラハッドとは見受けられないな」


 軽く掲げられたゴブレットに遠慮なくスヴェンはグラスを合わせた。


 相手の間合いをよく理解する者同士、旧友との会話をただただ楽しむ。在りし日に戻ったかのような二人の会話が緊迫した空気の中で楽しげに紡がれていく。


「さあ、友人よ。そろそろゲームも終わりのようだ」

「ああ……楽しかったよ。2ゲーム目に見逃しは……してもらえないようだね」


 スヴェンの言葉にステファノは緩く首を振って答えた。


「こればかりはすまないが、誰一人として逃がすつもりはない」

「そのようだ……。では、せめて」


 スヴェンは、異形としか言えない者との空間をじっと耐え恐怖と困惑しかないその中でも手を握り続けたナジーの肩をそっと叩いてからステファノに向き直った。


「誰も助からず逃げられないのなら、せめて彼女には恐怖と苦痛を与えないでもらいたい。友人からの最後の頼みを、聞いてもらえはしないか」

「スヴェン様、それでは貴方がもし……いけません。その提案はお断り致します」


 ナジーは握り続けた手を離しチェスの相手がいるであろう空間を見つめた。


「ステファノ様、そちらにいらっしゃるのでしょう。与えられる死など納得がいきませんが、不条理な運命は様々な形をして現れます。そして今回はその不条理が貴方の形をしているのですね」

「ああ、聡明なお嬢さん」

「私は、死には抗いません。ですが、貴方には抗います。貴方のもたらす死ではなく、それをもたらす貴方に、私は抗います」


 ナジーはゆっくりと、だが臆することなく立ち上がり目を開いた。


「ナジー!」

「痛みや苦痛など到底遠慮致します。それは私だけではなく、スヴェン様にもです。私を助けようとしてくれる優しい方、その方に私は顔を背けたくはありません。この不条理をゲームとしているのですから、それくらいはお譲り頂けるでしょう」


 困惑や恐怖が消え、その目には単純な力や強さではない抗う者の強い意志を宿していた。


 暫しの沈黙の後、その均衡を破ったのはステファノだった。


「ああ……レディ、君は強く美しい。己の愛の為なら犠牲も犠牲と思わぬ人間らしく傲慢で美しい我の強さ。僅かでも君を軽んじた私をどうか許して欲しい」


 ほんの少し、愛しいものを見るような眼差しでナジーを眺めてからスヴェンの背をからかうように叩いた。


「私も彼も聴く専門だがピアノが好きでね。一つ交換条件でどうかね」

「交換条件ですか……?」

「おい、君……」

「レディ、是非とも君の旋律が聴いてみたくなった。この一時、君の望みを無視してその瞳に光を宿そう。それが私の譲歩だ」

「悪辣が過ぎるぞ」

「控えめな男には黙っていてもらう。どうだね?それともこんな悪魔の前では、弾きたくもないかな」


 もっと残忍なことを提案されると身構えていた分、あまりに突拍子もない交換条件に面食らってナジーの唇から思わず笑い声が溢れてしまった。


「まあ、王の前でも平民の前でも、ふふ……天使の前でも悪魔の前でも奏でられる音は平等です」


 瞬間目に違和感を覚えた。

 そっと瞼を開くと品のいい調度品に囲まれた部屋。ベッドの上にはこちらを申し訳なさそうに見つめる初老の男性。


「スヴェン様、やっぱりお声の通り素敵な方でしたのね」

「君にそう思ってもらうには、僕はまだ不十分だよ」


 困ったように笑うスヴェンにナジーは唇に美しい弧を描き微笑みかけると部屋の真ん中に不自然に置かれた白いグランドピアノに進み、スツールに腰掛けた。


「持っている楽譜はこれだけですので、一曲でよろしいかしら」


 ポン、と鍵盤を弾くと調律のちゃんとされた美しい音が響く。


「人生の最後にまたピアノを弾くことになるなんて、本当に運命は不条理ですね」


 美しく暖かくなるような至上の旋律が不釣り合いなホテルにかすかに響き渡る。


 この音色に包まれている間だけは、全ての惨劇から切り離されるような、まさに天上の音楽と呼べるものだった。


「最後のひとときをありがとう、ナジー」

「こちらこそ、おやすみなさいませ。スヴェン様」




✧ Side Werner ✧



 単身で始まった豪雪の行軍に全身は指の先まで冷え、動かすたびに熱いほど痛んだ。


 少しずつ帰ってくる記憶に引き摺られてくる感情を処理することを心が拒んで、頭が熱に浮かされたようにぼんやりする。どこか他人事のように、これは精神的な防衛本能はのだろうなと思っている。


 いったい、どれくらい歩いたのだろうか。


 距離も時間もこのホワイトアウトに全て飲まれてよく分からない。

 このまま雪の中に埋もれるように死んでいくのかもしれない。それが良いのか悪いのか、どうなのだろうか。


 その時、ホワイトアウトの向こうにうっすらと頼りなげな灯りがちらついて見えた。


 街が見えてきたのだろうか、人工的な灯りにどこか体が勝手に安堵してしまうのか力が抜けそうになってしまう。さらに重くなった足を一歩、一歩、雪から引き抜き少しずつ確かになっていく灯りへと吸い寄せられるように進んでいく。


「そんな……」


 雪にも劣らぬ白く豪奢な外観。年季の入った、だが味と品が美しさを作り出す扉。その顔を堂々と飾る金で象られた名。

 ホテル・カサブランカ。


 結局、俺はなにからも逃げられないのか。


「この門を潜る者は一切の希望を捨てよ……」


 自分の言葉を嘲笑し扉を潜ると、暖かい空気と噎せ返る百合の香りに出迎えられた。


 どこに行くあてもないままふらふらと、ヴェルナーは歩みを進めた。

 朧気な足音を響かせるエントランスを抜けて、ただなんとなく真っ直ぐボールルームの前に来ていた。

 他人事のように自分が、このまま血溜まりを増やすのか?と自分に問うている。


 そうかもしれない。それでいいのかもしれない。


 ヴェルナーはボールルームの扉を開け放った。


 真っ白なクロスを纏い規則正しく並んだテーブル達。よく磨かれた曇りのない銀のカトラリー。シャンデリアに吊るされた無数のクリスタルが綺羅びやかな光を美しく散らしている。


 ホテルを出るまであったはずの遺体も血もなにもなかった。


 誰かが綺麗に片付けたのか、跡形もなく消えたのか、それとも最初からなにも起きていなかったのか。


「なにが、どうなっているんだ……」

「お客様、いかがなさいましたか?」


 はっと声のする方を振り返ると、金髪に長い三つ編みを四束下げた女性の姿があった。


「なあ、お前は……俺は前にもここにきたんだろう?」

「はい。ご宿泊頂いたお客様を忘れることはありません」

「その時のお前は、初老の紳士……だったよな? 今みたいに黒い化粧をした」


 ヴェルナーは近くにある椅子を乱雑に引き寄せぐったりと座り込んだ。


「俺は二度、役者を変えたカーテンコールに立たされてるのか」

「幾度でございましょう。もうお分かりになられるのでは?」


 音を立てずに熱い紅茶の入ったカップがテーブルに置かれた。


「ブランデー入りです」

「それは前回の俺が言ったんだろうな」

「ヴェルナー様、当ホテルはお楽しみいただけましたか?」


 この紅茶に毒が入っているなら、そんなことをせずにとっくに殺されているだろう。


 こいつは、こいつらは俺を楽しんでいる。


「ここは相変わらずいいホテルだな」


 紅茶を一口、口に含んだ。体の芯まで凍えていた身に甘いブランデーの香りと熱い紅茶が染み渡る。


「幾度ものご宿泊、当ホテル一同御礼申し上げます」


 幾度か……。今思い出せるだけで二度はこの狂った舞台に覚えがある。


「ですが、そろそろお疲れではございませんか?」

「……ああ、正直もう疲れた。ここにも、俺自身にも」

「でしたら、ここまでご愛顧いただいたお客様です。最後に私共に願いを叶えさせてはいただけませんか?」

「願い……?」


 上手く働かない頭を少しずつ思考が逡巡する。


 願い?俺の、願い……?


 俺は…………エア、お前に生きていて欲しい。


 お前と過ごした日々はどんな蜂蜜色の午後より尊い日だった。

 エア、お前を愛している。なによりも大事な俺の息子。


お前にもう一度会えたら。

俺があの時、間に合っていたら。

お前を助けられていたら。

お前を……救いたかった。


…………救う……?

いや、違う……。お前に救われたのは、俺だ。


俺は、お前を俺の人生に巻き込んだんだ……救いたいじゃない、間に合えばでもない。

あの尊い日々が、最初から存在しえないものだったら。

エア、お前をあんな目に合わせずにいられた。

なにもかもがエアへの贖罪のようで、俺へのただの自責による逃避だったんだ。

そんな事をしていたから、俺は全て忘れ勝手に罪の記憶から救われ、幾度もこんな狂った舞台に引っ張り出されるんだ。

お前は、こんな俺を駄目な父親を許してくれるんだろうな。

贖罪も謝罪も、受け止めてくれるのだろう。

そんなこと、俺が許せない。お前といた日々を再び望む俺を許せない。

エア、愛してくれて愛させてくれて、俺を親としてくれて、なによりも尊い日を一緒にいてくれて。

俺は、俺の責任を果たしてから、地獄に行くよ。

ありがとう、愛してる。




 長いようで短い、体感2分程度の瞬き。


 さあ、思考を巡らせろ、考えろ。


「真っ平ごめんだ。悪魔に願いを叶えてもらって、天国に行ったやつがいるか?」


 分からない、から分かるんだろ。


 俺にできる可能性を、探せ、雪のように小さくてもこの舞台をぶっ壊すだけの希望を。


「なあ、なんでも願いを叶えてくれるんだよな?なら叶えてくれよ。俺の願いは」



__幸運を。






✦ LOST ✦


Gaspard Muller

Sven Morgenstern

Najee Shandly

Werner=Heisenberg