第六話


⁻ Life is short, so fall in love, young lady. ⁻

✧ Side Σκιά ✧


 

「お部屋にいてくださいね」


 エレノアにそう言い置き、スキアーは205Cに割り当てられたエレノアの部屋を後にした。

 スキアーの部屋は別に取られていて、エレノアの部屋の向かいに当たる。


 いかに主従とはいえ男女で同室、何より主人と同じ部屋で休むことは出来ないとスキアーが主張した結果だが、オーナーが何者かの手によって殺害されてからはなし崩しにエレノアの部屋で過ごしていた。主人に危機がある以上、従僕たるスキアーに休まる暇はない。

 

 貴族の箱入り娘として育てられたエレノアも怯えている。

 スキアーは殆ど不寝でエレノアの警護に当たっていた。

 

 吹雪に阻まれて警察が立ち入れない山奥のホテルで起きた悲惨な事件の中で、宿泊客達は着実に疲弊している。

 そこはホテルスタッフも同様だろうが、先ほど温室で開かれた茶会は少なからずエレノアの心を癒やしたらしい。

 

 中でもコフィンという芸術家は絵画を趣味とするエレノアにとっては刺激となったようだ。淑女教育が始まってからは鳴りを潜めていたエレノア本来の無邪気な性格が垣間見えていた。

 好奇心旺盛で負けず嫌いだが、一度懐けば雛鳥のように付いて回る。

 

 そうして得た世界観を、絵として表現するのだ。本人は身贔屓だと言って信じようとしないが、エレノアの絵は目の肥えた貴族達の中でも評価が高い。

 一見基本に忠実で繊細な写実画だが、色合いやふとした線に幻想的なイメージが混じる。自由で型破りな画風の中に風刺的で現実味を帯びた線を混ぜるコフィンとは良くも悪くも対極でどこか似ていた。

 

 生来人見知りで、かつ上流階級の女性社会で生きてきたエレノアにとってコフィンは生まれて初めて出来た師であり、絵を描く同志なのだろう。

 エレノアを見守ってきたスキアーからすれば、彼女に初めて友人が出来るのは好ましい。

 

 とはいえ、本家の方々は好ましく思わないだろうな。

 

 米国育ちで常識にとらわれないコフィンのスタイルは、格式張った貴族であればあるほど顰蹙を買うものだ。

 コフィンの芸術性と生き様は、あえて品性をかなぐり捨てていると言ってもいい。

 

 多くのパトロンを持ちながら英国の上流階級に良い感情を持っていないというコフィンは、生粋の貴族からはむしろ嫌われたがっているようにも見える。

 だからこそ、コフィンの作品が見てみたいというエレノアの願いを彼が快諾した瞬間、スキアーは驚愕のあまり仮面の下で瞠目した。


「こっちに来たばっかの駆け出しの頃、それこそ色んな所に連れ回されてンだよね。奴ら、絵が気に入ったのかと思ったらオレを孔雀の羽みたいに扱ってさ~。お貴族様ってのはよほど特権階級を振りかざしたいらしいね」


 コフィンは温室を満喫するエレノアの後ろ姿を見て、嗤っていた。

 その目は凪いだ湖畔のように昏く、底知れぬ深さを宿していた。

 英国の上流階級が先行投資として若い芸術家を支援して囲う風潮は、もはや文化とも言える。コフィンは正しく“囲われた”芸術家らしい。

 

 スキアーに接触してきたのはエレノアを探るためだろうが、コフィンは生粋の令嬢を拒絶すると思っていたのに。

 

 茶会後すぐの誘い、というのははしたないだろうかと気にするエレノアに、スキアーは歓談の場を整えがてら先触れとしてコフィンに念のため改めて都合を聞いてくると伝えた。

 探りに行くのは正しくコフィンの腹なので、主人に嘘は吐いていない。

 

 コフィンの部屋は、同階の209Sだと本人から聞いている。

 エレベーターの前を通り過ぎた奥の部屋にあたり、コフィンはホテル・カサブランカに滞在する際は必ず同じ部屋を取るのだという。


 コフィンの部屋の前に立つと、来室を知らせることもなく中から「開いてるよ」と声が掛けられた。

 勝手に入ってこいということか。

 殺人鬼がうろついているホテルで不用心なことだが、許されているなら遠慮することもないとスキアーはエレノアの部屋と変わらない造りの扉を押した。

 

「あれ、ファントムお一人? てっきりお嬢様が羊みたいに突撃してくるかと思ってたけど」

「どちらのお部屋で、と詳細をお伺いしていなかったので。私はお嬢様の先触れとして参りました」


 平素であれば客間となるような部屋を頼むところだが、少数精鋭で運営されているらしいホテルはオーナーやスタッフの死、加えて吹雪の対応に追われている。

 エレノアの願いを叶えるならコフィンの部屋で、というのが自然だがコフィンがエレノアに約束したのは自身の作品を見せることだけだ。

 

「僭越ながら私がお茶の用意をさせていただきますが、その前にお手伝いできることがあればなんなりとお申し付けください」

「フーン、なんなりとねぇ……」


 コフィンの部屋はホテルの一室というより、アトリエのように改造されていた。

 豪奢なベッドが部屋の中央に鎮座している以外は、画材やイーゼルが所狭しと置かれ、画板やキャンバスが散らばって色の洪水を起こしている。

 

「これは……すごいお部屋ですね」

「でしょ~? オレの部屋でお茶を優雅に楽しむならベッドの上になるけど、従者サマ的にそれでもイイ感じ? それとも、ソウイウお誘いだったのかな?」


 コフィンは腕を伸ばしてスキアーの肩にしなだれかかると、首の後ろで指を絡ませた。

 至近距離でスキアーの素顔を覗こうと、コフィンの金瞳が蠱惑的に細められる。

 複雑な刺青を晒すための薄着は、真冬の英国には酷く不似合いだ。

 

「なぜ……英国にいらっしゃるのでしょうか? 英国貴族はお嫌いなのでしょう?」

「あは、先触れだもんねぇ。いいよ、味見がてら教えてあげる」


 いたずらっぽく嗤ったコフィンの唇が仮面に落とされた。

 仮面がなければ舐められていたであろう唇が熱くなる。

 

「オレのアトリエは便所みたいなもんだよ。パトロンを名乗る奴らからすれば、オレの絵は便所の落書きみたいなもんだろうね。でもさ、ロンドンで他の落書きにまぎれちまうくらいなら、とびきり綺麗なところで綺麗なもんを汚す方が楽しいっしょ?」


 コフィンは見た物をそのまま描く画家だという。

 ホテル・カサブランカで描かれたと思われる絵は全て、美しい色が醜く混ざり合っていた。

 

「ここ、便利なんだよね。頼めばなんでも出てくるし、創作意欲も増すしさ。ついには推理小説みたいな事件まで起こって楽しませてくれるなんて、そりゃあご令嬢からすりゃあ魅力的だよねぇ」


 するりとスキアーから離れたコフィンが、空いたイーゼルに黒いキャンバスを乗せた。

 黒く塗りつぶされているのかと思えば、線は全て人の顔を象っている。

 

「これ、オレの最新作。何を描いたと思う?」


 描かれていたのは、晒した覚えのないスキアーの素顔だ。

 そしてそこにうっとりとした女の顔が被せられていて、夥しい量の線は二人の人物があらゆる角度から描かれている。それらが重なり、最終的に黒く見えているのだ。

 

「答えはね~、男と女♥」


 写実的に描かれたエレノアは、どれもスキアーを物欲しげに見詰めていた。






✧ Side Ereanor ✧




いや……いやいやいや……これは全部悪い夢。

目が覚めたらスキアーさんがベッドまで紅茶を持って来てくれて、いつもみたいに朝の挨拶をするの。

誰も死んでない。誰もなにも起きてない。

……助けて、助けてスキアーさん……


「スキアーさん、スキアー……どこにいるの……」


 まるでゲヘナのような景色が広がる。

 罪人を焼いたオレンジの炎を吐き出す焼却炉、白い大地に投げ出された真っ黒に焼け焦げた人間だったもの。呆然とした顔を背けられず網膜に全てを焼きつけ、ドアノブを掴んだままエレノアは地面にへなへなと座り込んでしまった。


 淑女が地面に座り込むなんてはしたないこと、彼がいたらたしなめられてしまう。

 人の死を間近で見たショックか純粋な恐怖からか、ぽろぽろと涙がとめどもなく溢れてくる。


「エレノア様! ……っ!」


 エレノアが座り込む扉から飛び出してきたのは先程窓から身を乗り出し、ウズリフに加勢すべく駆け下りてきたアイザックだった。


 二つの黒い塊を見て状況を全て察したのか、一瞬唇を噛むとすぐさま怪我はないかどこか異常はないか確認するようにしゃがみこみエレノアに視線を合わせた。


「スキアー……? スキアーはどこ?」


 その美しい瞳はアイザックの視線と合っているはずなのに、どこか遠く別のものを見るようにスキアーを探し続けている。


「ここは寒いです、とりあえずお部屋に戻りましょう。手を失礼します……大丈夫ですって。きっとスキアーさんもすぐ来ますよ。」


 アイザックは下の兄弟を慰めるときのように背を優しくさすりながら、ドアノブを力なく掴んでいる手を取るとそっと立ち上がった。エレノアは促されるままゆっくりと客室まで歩きだした。





「お嬢様!!!」


 のんびりと上がるエレベーターが3階に着き、古めかしい駆動音が止むと、焦り必死に主を探すスキアーの声が耳に飛び込んできた。


「スキアー……!スキアー!スキアー!」


 霧がかかったような頭の中で必死に求め続けた人の声。急に意識が覚醒したように支えるアイザックの手を払い除け、出し慣れない大声のせいで掠れた喉でスキアーを呼びエレノアは目の前の通路へ駆け出した。


「お嬢様!! どこに行って……!! こんなにお体が冷えて……お嬢様?いったいなにが……」


 仮面で見えないが血相を変えて飛んできたスキアーにしがみつくと今まで受け止めきれず処理されなかった感情が一気に溢れ出し、エレノアはまるで幼い子供のようにただただ泣き出してしまった。


 一瞬躊躇うように止まったスキアーの手は空中で音が聞こえるほど強く握りしめられると、泣きじゃくるエレノアよりも苦しそうに瞳を伏せ震える小さな背中にそっと掌を添えた。





 エレノアの涙が引き落ち着くまで半刻以上かかった。その間にアイザックから事の顛末を全て聞き、スキアーは何故主の元にすぐさま戻らなかったのかを説明することもできず己の身勝手な愚かさに奥歯から血が出るほど歯を食いしばり、ただただエレノアに謝罪と慰めを繰り返した。


「すみません……こんな、子供のように大声を上げて泣くなんて……」


 目は兎のように真っ赤になり、まだ少し呼吸に胸を引きつらせながらしがみついていた安心する胸元から顔を離すと、恥ずかしそうにスキアーに謝罪をした。


「どうか謝罪しないでください。私がお嬢様の元に戻らなかったばかりに、この様な目に、お嬢様の命を危険にさらしたのです。どのような陳謝をしても到底許されるものではありません」

「私は大丈夫です……ウズリフさんが身を挺して守ってくれました……。貴方を心配して、なんて私の身勝手さで危険な目に、あって……」


 鮮明に風景を思い出してしまったのだろう。ごめんなさい……と、自分のせいで命を落とした者への謝罪だろうか胸の前で手を組むと苦しそうに閉じた瞳から再び涙が溢れてくる。


「お嬢様……そのような苦しい思いをさせてしまい、申し訳ございません……。お部屋に戻りましょう……」


 小刻みに震える背に静かに手を添えられ、スキアーに連れられるままにエレノアは通路を後にした。



 渋みの少ない花々を思わせる軽やかな香りがカップから漂う。蔦と花を青く絵付けが施されているティーカップをお行儀が悪いが両手で持つと、じんわりと熱が伝わる。


「少し、落ち着かれましたか?」


 スキアーの淹れる慣れ親しんだ温かい紅茶は、穏やかで太陽の匂いがするブランケットのようにエレノアの心を包んでゆく。


「はい……ありがとうございます……」


 繊細な心にはあまりに重い負荷を負ったが、今度こそ多少の落ち着きを取り戻したエレノアはスキアーを見上げた。


「あの、スキアーさんは、大丈夫でしたか……?」

「私、ですか?」

「部屋に戻らなくて、心配で思わずキッチンに向かったら外に向かったと聞いて……なにか、あったんですか?」

「いえ、ホテルスタッフの方が外で作業をしていましたので、なにかお手伝いできる事はないかと思いまして……ですが、すぐさまお嬢様の元へと戻るべきでした。申し訳ございません……」


 エレノアは瞳をさらに大きく見開くと、深々と頭を下げるスキアーに慌てて椅子から飛び上がり全力で両手を振り否定の意を示した。


「いいえ……!そんなことありません!こんな状況です、ホテルの方もきっと大変なはずです。それに、スキアーさんはちゃんと探してくれました」


 こんな時でも、必死に探してくれた姿を思い出すと心が浮かれに踊るようだなんて。

 場を弁えない己の恋心に後ろめたさと喜びを感じて恥じるように顔を下に向けてしまう。


「はて?それは従者として当然では」


 わざとらしくとぼけると、スキアーはティーポットを手に取り軽く左右に振った。


「おや、お湯がないようですね……少々キッチンまで行ってきます」

「えっ、私も一緒に行きます!」

「お嬢様は必ず守ります。ですが、またなにかを見てしまったらと思うと……お部屋にいて鍵をかけ、どうかお待ちください。大丈夫です、二度とこのような不安な思いはさせません」


 スキアーが目の前で恭しく膝をつき、しかと合わせられる仮面の双眸に、エレノアは思わず頷いてしまう。


「では、すぐに戻りますね」


 エレノアは自分のもとを立ち去るスキアーを不安げに見送った。

 それがなんなのか正体も分からない、ほんの少しの違和感を抱きながら。






✧ Side Σκιά ✧



 絶対に守ると誓ったのに本能的で身勝手な行動のせいでエレノアを危険にさらしてしまった。自分のせいで。


 激しい自己嫌悪と後悔。苛立ちを仮面だけでは隠しきれずにスキアーは理由を作り無理やり部屋から逃げ出すと、閉まった扉を背に思わず籠もった溜め息が漏れる。


 とてもまっすぐキッチンには向かえず、己の誰にも見せることのできない激情を芽生えさせた張本人の姿を探すように階段を使い時間を稼ぐように歩みを進めた。


「なにをしてるんだ俺は……」


 キッチンを借りエレノアの為の湯を沸かす為に水を入れたケトルをコンロに置くと、いつもより少し弱めた火をつけた。


 なにを犠牲にしても必ず守ると、絶対に守り抜くと誓った。そしてこの16年間己の立てた誓いを守り続けた。そんな自分自身の意思に揺らぎを感じたことは一度もない。


 エレノアが苦しまないように悲しまないようにと、影となり盾となり彼女の傍らに立ち続けた。そこには一切の後悔も嘆きもない。

 だからこそ、こんなにも誰か特定の一人を暴きたいなどと言う、押さえつけなければこの身を勝手に動かす暴力的な感情に惑う。


 こんなところにいるべきではない、そんな事は理解している。あの時震えるエレノアを慰めながらも心の片隅に渦巻くものに理性が叱咤していた。

 だが、こうしていればホテルのどこかで偶然会えるのではないかと家に帰りたくない子供のような悪足掻きをしてしまう。


 汽笛のような音が湯気を吐き響き、ぐるぐると黒ずんだメビウスのような思考からスキアーを現実に引き戻す。


「はっ……馬鹿馬鹿しい」


 ひとりごちてポットに湯を移した。


✧✦✧


「あっれー、色男じゃん。さっきぶり♪」


 ポットを片手にエントランスから伸びる階段を3段、4段……。

 上から間延びした声が降ってくる。今一番会いたいと思っていた、聞きたくない声にスキアーは勢いよく視線を上げた。


「素知らぬ顔でお嬢サマのお世話なんて、甲斐甲斐しいことだねン。なあ、自分に恋する乙女にどんな顔して会ったワケ? 興味あるなァ」


 いけない。抑えろ。


「うるさい。構ってると湯が冷めるから退いてくれないか」

「どーぞ?」


 俺はエレノアの為に、その為にいるんだ。


「この下せんなる絵描きの横をお通りください、旦那サマ。オレには自分の意義を大事なふりした相手に都合よく押しつける偽善者サマの高尚なる悩みなんて理解できないし?」


 本当にアンタってファントムだよなァ。

 コフィンのせせら笑う声が脳内でリフレインする。

 頭に血が上るような怒りに声にならない慟哭がスキアーの身を震わせた。


「オレのこと殴りたい?なんならそのあっつい湯でもかけてもいいぜ」


 好きにしろよ、とまるでどこか暴力性を肯定するような自傷的な笑みにスッと頭の血が引き代わりに新たな疑問が頭に浮かんだ。


「お前は、なにを求めてるんだ……?」


 近づきたい。視線の距離を縮めるように階段を再び登る。

 ゆっくりと上下の位置が逆転していく。

 知りたい。見てみたい。

 欲しい。


「さあ?」

「俺は、自分の求めるものなんて無い。エレノアを守ることだけが俺の意味だ」

「へー、オレはてっきり過保護なママみたいに世間知らずにして、アンタの隠したもんから守ってんのかと思ってたよ」

「辛辣だな……。俺の秘密は、エレノアを傷つけない為に隠してるんだ。エレノアは俺を……」

「おにいさまが恋した相手だなんて、いいねぇ苦悩の恋ってやつは!最高に絵になるねぇ。で、そのいもうとさまの気持ちには気付かないふりして、まんまとオレに恋しちゃったわけ?」

「はは!笑える冗談が言えるんだな。羨ましくもない、ただお前みたいな自由が物珍しかっただけだ」


 コフィンは口の端をチェシャ猫のような三日月型にしてニ段、後退りをした。


「素直になっちゃえよ、オレが欲しいんだろ?」


 アンタみたいな目、よく知ってるよ。

 視線を合わせた答えを求めぬ問いに、突き動かされるようにスキアーはコフィンの首を掴み勢いのまま引き寄せた。





✧ Side Ereanor ✧




「戻りました、お嬢様。時間がかかってしまい申し訳ありません」


 カチャリとドアの鍵が開く音に思わず肩を跳ね上げ、聞き慣れた声に胸を撫で下ろした。


「スキアーさん!無事でよかった……!」

「大丈夫です。その辺の一般人より強いのはご存知でしょう」


 安心させるように笑いながら、お湯の入ったポットを持ったスキアーが手際よくお茶の支度をする。

 紅茶を注ぎカップをエレノアの前に静かに置いた時、エレノアは一瞬悲しそうな苦しそうな表情を浮かべた。


「お嬢様?どうかしましたか?」

「なんでもないです……私、絵が描きたい。温室に行きたいです」

「……かしこまりました。すぐに準備をします」

「いいえ」


 普段スケッチに使う道具をスキアーがまとめだすと、どこか不機嫌そうなエレノアのぴしゃりとした拒絶が飛んだ。


「スキアーさんとは行きません……」

「いけません。お屋敷の庭でもない、殺人鬼がうろつくこの状況でお嬢様を一人にはできません」


 してたじゃないですか……。その言葉を飲み込みエレノアはスキアーを見つめる。


「なら、ベネロペさんと行きます。二人なら問題ないですよね」

「ですが……」

「ベネロペさんを呼んでください。私はスキアーさんとは行きません」


 2度目の拒絶に暫しの間考え込むと、かしこまりましたと踵を返しご所望のベネロペを探しにスキアーは部屋を後にした。


「なんで」


 スキアーさんから知らない人の匂いがした。

 今までこんなに時間を空けることも早々なかったのに。さっきも今も、きっとスキアーさんは同じ人の側にいたんだ。


 私じゃない、人のところに。


 自分の体の中で心が黒くドロドロとしたものに覆われていき、まるで自分の知らないものに変わってしまうような錯覚に襲われる。

 ぐちゃぐちゃとした恋だったものを抱えて、彼を私の側から解放しようと思った。

 これが最後の思い出作りと言う我儘にして、それでいいと思った。


……告げるだけ困らせてしまう、結ばれぬものとも知っていた。


 だからこそ、その蕾が愛しく苦しい恋ではなく罪だと知って、自分のはしたなさと花開かぬ苦しみに余計に苛まれた。


それなのに、彼は、誰を選んだと言うの


 告げる事を決して許されなくなった罪を抱える私から離れて、あなたはどこに飛んでいくつもりなの。


彼を責められない。それは分かっている。

私の問題で、優しい彼に強いてはいけないものだから。

でも、だけど、理性とは違う衝動的な恋という名の激情がそれを許してくれない。

こんなのは、こんな自分は間違っている。

欲しい、離さなきゃ、堂々巡りのように沈み昇る感情が上手く制御できない。

私は、どうすればいいの……。




 数分の後ドアをノックする音と共にカチャリと鍵が開いた。

 仮面以上に普段より表情の分からないスキアーに伴ってベネロペが嬉しそうに笑顔を浮かべながら部屋に訪れた。


「お嬢様からのお呼びなんて光栄です!さあ、どこへなりお供しますよ」


 花が咲くような笑顔を向けられ、それすらもどこか棘のように心に小さな痛みをもたらす。


「ありがとうございます……ベネロペさん」


 そうだ、この人は自分の力で恋を叶えたんだ。花のような笑顔で、弾む愛らしい声で。


「さあ、行きましょう。お嬢様!」


 二人はスキアーに見送られるとエレベーターへと向かった。


「恋の苦しみですか?」


 唐突に踏み込んできた言葉に驚き隣を歩くベネロペを見ると、いつだかの慈しむような瞳でエレノアを見つめていた。


「……わかるん、ですか……」

「もちろん、恋は乙女に様々な顔をさせます。満たされた陽だまりの子猫のような顔、夕陽にてられた海のように切ない顔、そして己の中に悪魔が囁くような苦しい顔」


 途端にエレノアは顔を苦しげに歪ませ俯くと、ぽつりぽつりと零しはじめた。

自分の許されない恋、抱えてしまった罪、好きな相手が選んだ好きな人。


 ベネロペはうん、うん、と相槌を打ちながら、つかえながも初めて外に出すエレノアの言葉に静かに耳を傾けた。

エレノアはエレベーターの前に着いても、暗い空間を境にする籠扉の前で話し続けた。



「お嬢様の大切にしてきた心を、聞かせてくださってありがとうございます。お苦しかったですね……」


 ベネロペは右手でそっとエレノアの片手を取ると、自分のもう一方の掌を重ねて包むように労った。


「私は……どうすればいいの……」


 儚く呟く葛藤にベネロペが声を潜めて囁いた。


「簡単です。奪ってしまえばいいんですよ」


 耳にするりと滑り込むように囁きは続く。


「恋しい相手を手に入れる為なら、なんだってしていいんです。愛の名のもとに犠牲は存在しないんです。すべて愛を得る為、その手段に過ぎないんですよ」

「愛……」

「そうです。愛しい人に笑顔を向けてもらえるためなら、それはひたむきな恋する乙女の努力と変わりません。奪ってしまいましょう」

「でも、どうやって……」


 エレノアの困惑するような疑問ににっこりと

ベネロペが答えた。


「秘密です」

「そんな意地悪しないでください」

「いえいえ!秘密ですよ!二人だけの秘密を作るんです。共通の小さな罪を抱えればいいんですよ」

「つ、罪ですか?」


 さらに困惑したようなエレノアがたじろぐような声を上げた。


「ほんのささいなものでいいんです。例えば……私をここに突き飛ばしてください」

「え?」


 ベネロペはエレベーターの筒とこちらを隔てる籠を開け放ち、暗い何もない四角い空間を指差し微笑んだ。


「エレベーターの籠がない状況の空間にお嬢様が私を突き飛ばして私が怪我をします。それをスキアー様に告げて二人で共にその秘密を隠します」


 エレノアは大きく頭を振った。


「そんな事できません!」

「このエレベーターの籠がすぐ下の階にある時なら、身構えていれば多少の受け身は取れますしきっと骨も折りません!」

「でも……」


 人を突き飛ばすなんて、到底考えられない。

 打ち所が悪ければ死んでしまうかもしれないのに。それでは、このホテルのどこかにまだいるかもしれない殺人鬼と変わりないじゃないか。


「そんなこと、できません……」

「大丈夫ですって!恋は強引な方がいいんですから!私だってアイザックに何度もアプローチしたんですよ」


 途端、ベネロペが頬を赤らめ思い出すようにうっとりと瞼を閉じた。


「私を見てほしくて何度も可愛いと思ってもらえるように、頑張ったんですよ。恋はこのくらい強く動かないと!」

「あなたは……」


 ああ、いけない。黒いドロドロが溢れてくるのを感じる。


「あなたは良いですよね。可愛くて明るくて、恋をかなえて」

「お嬢様……」

「好きな人に好きになってもらえて」

「そんなつもりじゃ」

「好きな人に好きと告げられて……!」


 慌てた様子のベネロペが再び手を包もうとしてくる。それすらも腹立たしい。


「はなしてください……」

「でも、お嬢様ならきっと大丈夫です」

「はなしてって言ってるんです!!」


 思わず、顔を覗き込んできたベネロペの肩を怒りに任せて両手で強く押してしまった。


「あ…………」


 バランスを崩したベネロペは眼前の暗闇に吸い込まれていった。


 潰れるような、叩きつけるような嫌な音にエレノアは頬を叩かれたように我に返った。

 そして自分のした過ちが、突き飛ばした手の感触が頭の芯を氷水に浸けたように冷たくしていく。


「あ、ああ……」


「お嬢様!!」


 先ほどのエレノアの大きな声を聞きつけたのだろう、今この世界で一番会いたくない人物が近づいてくる。


「違う、いや、来ないで……!!見ないで、私を見ないで!!」


 エレノアは脇目も振らず駆け出していた。

 こんな自分を見られたくない。身勝手でどうしようもない、人を殺めてしまった自分をあの人の美しい瞳に映したくない。


 逃げ出す兎のような速さで自分の部屋に飛び込むと、設えてある濃いブラウンの書斎机の上、火の灯るオイルランプ、羽根ペンと並べてある金のペーパーナイフを勢いよく掴んだ。


 死んでも詫びや弔いにはならない。


 そんな事は分かっていても、怖いものも苦しいのも自分を脅かすものも、もう嫌。

 ずっとずっと、暖かで優しい私の繭に閉じこもっていたい。ここからいなくなりたい。


 摩耗した精神に事故とは言え人を殺めた罪悪感。常人ですら耐えられないような極限のパニックに、エレノアの頭は死と言うなによりも濃い一色に染まってしまった。


 オイルランプの揺らめく淡いオレンジを写し、黄昏のように光る金の刀身を白く細い喉に合わせる。


このまま……私なんて死んだほうが……


「エレノア!!やめろ!」


 数秒遅れて部屋に飛び込んできたスキアーは己の喉から振り子のように高く手をかざし、細いナイフを突き立てようとするエレノアを抑えようと飛びかかった。

 あくまで怪我をしないよう、力を加減しているからか暴れるエレノアが両手を振り回す。


「頼む……!聞いてくれエレノア!傷ついてほしくないんだ……!」


 苦しげにスキアーがエレノアを落ち着かせる為に視線を合わせようと、顔を近づけた。


「いやぁっ!!」


 その瞳に、その美しい瞳にこんな私をどうか写さないで。


 その行為がさらに、守ると誓いを立てた存在を追い詰めるとも気がつかずに。


「ぅ"ぐっ……!」

「あ……ちが、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 細い金の刀身はエレノアの握る柄の部分まで深々とスキアーの喉元に納まっている。


 どうにか元に、彼からこの異物を取り除かなければ。パニックになった頭で深々とおさまるそれを引き抜くと、勢いよくティーポットから注がれる紅茶のように血しぶきが上がりエレノアを赤く濡らした。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 とめどなく溢れる血を止めようとスキアーの首に手を添えるがなにも意味をなさず、ただ生暖かい血がただ指の隙間から流れていく。

 泣きながら己の首を押さえ続けるエレノアの赤く染まった手を、スキアーがそっと外した。


「手が、血で汚れてしまいます……。ああ……そんな顔をさせて、申し訳ありません……」

「こんな、こんなつもりじゃ……死なないでください……お願い……」


 スキアーは困ったように笑うと重そうに手を伸ばし、柔らかく波打つエレノアの髪を控えめに撫でた。


「主の、願いを叶えられない……従者とは……恥ずかしいですね……」


 喋るたびに血が混じり仮面の下からごぽごぽと泡のような音が混ざって聞こえる。



誰よりも長くエレノアの側にいて、守ってきたのに。最後にこんな顔をさせてしまうなんて……。

最後、最後か……。

こんな時にもあいつの顔がちらつくのは、エレノアに申し訳ないな……。

だが、もう少し、あいつと。いや……もっと、あいつと時間を過ごしてみたかったな。


視界が霞む、愛しい泣き声が遠くに聞こえる。

ああ、どうかもう泣かないで。

ごめん、俺の、大事な妹なのに……。




✧ Side Eleanor ✧




私が恋をしなければ、私が好きにならなければ……!こんなこと……あの人達は死ななかった……!

私が悪いの……私がいなければ……。


気がつけば足は楽しく賑やかな記憶がある温室に向かっていた。

ここでした花占いの答えはなんだったかしら……。

もう、全部溶けてなくなればいいのに。

思わずスケッチブックを取り出したくなるほど見事な、花に彩られた冷たい水に足を浸ける。

好きになってごめんなさい。

恋をしてしまってごめんなさい。

私は罰を受けなければいけない……ごめんなさい。スキアーさん……好きになって、ごめんなさい。


ざぷん___

スキアーを刺したパレットナイフを水の中で己の胸に突き立てた。



✧ Side Coffin ✧




「なーんだ、結局お前も死んじゃったんだ」


 エレノアの部屋に行けば唆られる面白いものがありそうだと思い、訪ねてみれば部屋の扉はご自由にと言わんばかりに空いていて、コフィンが遠慮なくお邪魔すると部屋の真ん中で、血に塗れたスキアーが横たわっていた。


「ねえねえ、やっぱさ俺に惹かれるやつって死んでく運命?みたいなやつあんの?」


 物言わぬスキアーの側でしゃがむと楽しそうな声色で月のペイントが施された白い画面を外した。


「顔もよく似てるけど、あんたら似たもの兄妹だったねぇ」


 スケッチブックはそのままに、己の目に焼きつけるように眺め続けた。




✧ Side Isaac ✧




 慌ただしくホールやキッチンを言ったり来たりしているアイザックが鈍い重い音を聞いたのは、何度目かにエントランスを通った時だった。


「!!なんだ……?」


 最初はまた殺人鬼かと思い咄嗟に身構えたが、音は一度きりで辺りにも異変は特に見当たらない。

 高い所から何か落ちたような音だったが、階段からはなにも落ちてこない。音の出どころを探っていると静寂の中に微かな音が加わった。


 ぴちょん、ぴちょん


 締め忘れた蛇口から水滴が滴っているような、微かな水音。

 その音をゆっくりと辿っていくと一階で止まっているエレベーターの中からだった。


「なにが……は?おい!誰かいるのか!!」


 それはエレベーターの上を伝って雨垂れのように滴る血溜まりだった。


 このエレベーターの上に誰かがいる。この血の量は相当の怪我をして声を出せない状態なのか、もしくは……。


 アイザックは階段を駆け抜け二階のエレベーター前につくと呼び出しボタンを連打し、籠扉を開け放った。

 二階からでは光源が足りないが、のんびりと昇ってくるエレベーターの箱が血溜まりを作った人物を運び上げてくる。


「くそっ……!!」


 ミルクティー色のお団子は解け、首をあらぬ方向に向け目を見開いた恋人が、ゆっくりとアイザックの目の前に運ばれてきた。


 そのまま、慎重に動く台座からベネロペを抱き寄せ横向きに抱えるとアイザックはこの惨劇の数日で一番悔しそうな顔でごめん、と呟いた。







✦ LOST ✦


Benelope Lovetaker

Σκιά

Eleanor Portman







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