第五話


- Escort to the good ending. -

✧ Side Cordell ✧


 

 シャワーが肌を叩く。

 招待状を受け取ったときは古いホテルと知って鼻白んだが、水回りはどこも最新式にリフォームしてあるようだった。

 

 壁に貼られたタイルは古いがセンスの良い色をしていて、どれも磨き込まれている。おまけにシャワーは湯が途中で水に変わるどころか、一定の水温を保ったままの細かい水が全身を隈なく濡らしていった。

 

 清潔感のあるバスルームに置いてあるのも全身用の洗浄剤ではなく、髪と身体それぞれ用のボトルという気の利きようだ。職業病でボトルを確認してみると、コーデルの店でも使用を検討したことがあるブランドである。他にも髭剃りや柔らかなタオルなど、どれも上質で使い勝手の良いものが置かれていた。

 

 どれも観光名所にあるような外国人向けの高級ホテルを思わせる充実したアメニティだ。しかし、初日以降補充はされていない。タオルやリネンだけは陰湿そうな黒髪の女性スタッフが回収して新しいものを持ってきてくれたが、それもいつまで保つか。

 

 オーナーが殺された後、ホテルに滞在している人間は宿泊客もスタッフも関係なく大吹雪によって籠城をやむなくされている。

 一部の人間は遭難覚悟で出て行ったようだが、コーデルはわりと自由に過ごしていた。

 

 元より、ホテルに滞在する予定の一週間は外に出るつもりがなかった。

 街が騒がしくなってきたのでほとぼりが冷めるまではどこかの田舎に引っ込むつもりで、ホテルへの招待状はきっかけにすぎなかったが、なかなかどうして面白い事態になっている。

 

 コックをひねり、湯を止めて身体を拭いながら脱衣所を兼ねた洗面台に向き合う。

 シャワールームからの湯気で多少曇っているものの、ホテルにお誂え向きとしか言えない大きな鏡に自分の姿が映るなり、コーデルは鏡を力一杯殴りつけた。

 

 青い血を持つ貴き気分の隠れ別荘と言ったほうが相応しいホテル・カサブランカで唯一気に食わなかったものだ。

 数日程度なら耐えられる。ただ、見ないようにすれば良い。ずっとそうやってきた。__そう思って耐えてきたが、もうそろそろ我慢の限界だ。

 

「__お客様、今の音は?」

 

 扉の外からノックの音と、呼び出していたホテルスタッフの声が聞こえる。

 コーデルはひび割れた鏡の向こうで、己の唇が歪むのを見た。

 


 

✧ Side Snow ✧

 


「つっかれた――!」

 

 威勢のいい声で温室に転がり込んできたのは、エルロックに引きずられる形でキッチンの防音性を確かめに行っていたギャスパルである。

 本人は不服そうだが、エルロックの相棒役がすっかり板についてきている。

 当初の気弱な態度がとれないほど疲弊したのか、ギャスパルは椅子を見るなり崩れ落ちるように腰を下ろした。位置はスノーの隣である。

 思わずぎょっとしたスノーの様子にも気付けないほど疲弊しているのか、ギャスパルはそのままテーブルに突っ伏しつつエルロックを忌々しげに睨みつけた。

 

「ていうか、なんで僕がフライパン叩き回らないといけないんですか! それも力一杯だなんて……自慢じゃないですが、体力ないほうなんですからね!」

 

 ぎゃんぎゃん喚くギャスパルとは対照的に、エルロックは上機嫌で優雅に腰を掛ける。

 エルロックがギャスパルの向かいに座ったので、意図せずスノーの周りは賑やかになった。

 隣のテーブルではコフィンとエレノアが言い合いをしていた(というより、コフィンにエレノアがからかわれていた)が、先ほどまではヴェルナーが時折話しかけてくれる程度だったので、沈んでいた意識が強制的に引き上げられる。 

 ヴェルナーもエルロック達の話に興味があるようで、目線を送りつつウズリフが持ってきた湯気の上る料理に手をつけていた。

 

「本当に自慢にならないけど、君の愉快な演奏のお陰で良いデータが取れたんだ。誇りなよ」

「誇れますか! 大体厨房の防音性をあんなに念入りに確かめる必要性なんて、今のこの緊急事態にどれだけあります!?」

 

 いつの間にかエルロックはギャスパルに対して丁寧な言葉遣いすらも放棄したようで、どれだけ吠えられてもどこ吹く風である。

 ウズリフが淹れた紅茶に舌鼓を打ちつつ「そりゃあ、大ありさ」と謳うようにのたまった。

 

「防音性があるのはあの厨房だけ。ということは、あそこに連れ込まれたら最後、悲鳴も何も届かない。扉を叩こうが金属をかき鳴らそうが、書斎にいても聞こえる音は僅かだ。なのに、僕らは食事をしなければ三日も保たない。なかなかな事態だよ」

「それは、そうですけど……」

 

 ギャスパルが威勢をなくしつつ、ようやく身体を起こす。

 食事の重要性を説かれたからか、単にエルロックに連れ回されて空腹だったのか、もそもそとキッシュを口に運び始めた。

 

「そういえば、他の方々は?」

 

 二三口でキッシュを食べ終えたギャスパルは、旗色が悪くなったからかきょろきょろと周りを見回した。

 

「ポートマン様達はお茶を楽しまれた後、ドジャー様のお部屋に向かわれましたよ。絵のことで意気投合されたようでして」

 

 アイザックが如才なく答えるが、その回答にギャスパルが思わずといった様子で目を剥く。

 スノーも気持ちはわかるだけに、黙って紅茶を啜るに反応を留めた。

 

「……ポートマン様って、あのお嬢様ですよね? Mr.ドジャーとはどう見ても気が合わなさそうですけど」

「そうかい? お嬢様の手にはペンだこが、お召し物には絵の具の汚れがあった。従者然とした彼の目を盗んで描いていたのか、彼女の身の上が我々の想像するところとは違うのかは不明だが、絵を描いているのは確かだ。そして、Mr.ドジャーは名の知れたアーティストだろう? なんら不思議じゃないと思うけどね」

 

 エルロックは全く気にならないのか、何かの資料を読み込んでいる。

 恐る恐るスノーが聞いてみると、ホテルの詳細な見取り図のようだった。

 

「後でここに全員の部屋を書き込もう。プライバシーがどうこう言える段階じゃないからね」

「初めて君に同意できそうだが、それはオーウェンが管理していたものじゃなかったかい?」

 

 資料を一瞥したスヴェンが怪訝そうな顔をしたが、エルロックは「必要なものですから。少なくとも、警察が到着するまで我々の身を守るためには」と悪びれない。

 同じ経営者として思うところがありそうなスヴェンには、ウズリフが「私とデイジーで判断し、ホームズ様へお渡しいたしました。まずは皆様の命を守ることが最重要ですから」と耳打ちした。

 

「だったら余計に、今のように離れて行動するのは得策とは言えませんわよね。広いホテルですから、厨房でなくとも攫われてしまったらまず気づかれないのですし」

「特にナジー嬢は、失礼ながら目が不自由ということもある。スノー君もまだ子供だ。君らは特に単独行動は控えるように」

 

 ナジーには可能な限り女性スタッフやスヴェンが、スノーにはヴェルナーが付くとしてまとめられる。

 成り行きで自分を押しつけられてしまったヴェルナーをスノーが見上げると、ヴェルナーは「気にすることはない」と優しく口角を上げた。どうやら笑っているつもりらしい。

 

「記憶がない自分にも、君は優しく接してくれるだろう? 君こそせっかくのホテルでの日々がこんなおじさんと一緒になってしまって申し訳ないが、年の離れた友人ができたとでも思ってくれないか」

「そんな、願ってもないです! こちらこそよろしくお願いします、Mr.ヴェルナー」

「Mr.はつけなくていいよ。こちらこそ、スノーと呼ばせてもらっても?」

 

 もちろんです、と息巻いてスノーが頷いたところで、ようやくヴェルナーは笑ってくれた。

 


✧ Side Najee ✧

 


 お茶会で宣言したとおり、スヴェンはナジーを部屋の前までエスコートしてくれることになった。

 広間へ戻る前に、どうしても取りに行きたいものがあったのだ。

 そうでなくとも、一人ではやはり怖くて満足にシャワーも浴びられていない。

 身体は逐一拭いていたつもりだが、視覚が不自由な分ナジーの聴覚と嗅覚は常人以上に発達している。

 自身の嗅覚が影響して香水に頼れない以上、いい加減全身を洗いたい気持ちもあった。

 

「そういうことだったら、女性スタッフを呼んだ方がいいのでは?」

「ええ、でも……皆さんお忙しいでしょう? それに、スヴェンさんは紳士だと信じておりますわ」

 

 ナジーがあえて軽やかに断言すると、スヴェンからは苦笑が漏れた。

 英国紳士が淑女に「自分がシャワーを浴びている間、部屋で待っていてくれないか」と言われれば、当然としかいえない反応である。

 

「若い娘さんに信頼してもらえるのは嬉しいが、用心深いのかそうじゃないのかわからない対応だ。確かにこの老骨では、狼役には成り得ないけどね」

 

 窘める口調のスヴェンが足を止める。

 ホテルに到着した際に自室までの道順は頭に叩き込んでいたので、到着したのだと察した。

 自分でも異性にこんなことを頼むのはどうかと思うが、エスコートしてくれる手の感触や声音から察するにスヴェンは恐らく父と同世代だ。

 年齢で弾くというわけではないが、現にスヴェンの声音は呆れる、というより娘の我が儘をきく父に近い。

 初日の晩餐会で打ち解けられたことも大きいが、スヴェンから感じる思いやりも父によく似ていることがナジーに踏み込ませた。

 

「あら、騎士様としてお願いしたつもりですのよ。合理性とも言いますけども」

     


「これは参ったね、まあ淑女の我が儘を聞くのも騎士の務めかな?」


 

 スヴェンの笑い声が耳朶を叩く。

 もちろん合理性は半分冗談だが、半分本気なので気を悪くされないで良かった。

 

 被害者を二人も出した上に一人を雪中行軍に送り出したホテルスタッフは今明らかに人手不足だ。

 元より少数精鋭のスタッフ達で歴史のあるホテルを運営しているとは聞いていたが、それにしても今は異常事態である。

 目が見えない生活は慣れたものだが、それでも初めての場所となればやはり人の手を借りなければならない場面も多い。

 初対面の人達の中で誰が一番信頼できるかと聞かれたら、ナジーの中ではスヴェンしか思いつかなかった。

 

 それに、さりげないスヴェンの気遣いから感じるのが、ハンディキャップを抱えてから感じるようになった同情的なものではなく、一人の淑女扱いであることも嬉しい。

 だからこそ思い切って甘えることができると踏んで、スヴェンはその期待を裏切らなかった。

 

「あの、甘えついでに恐縮なのでのですけども……騎士様にもう少しだけ頼らせていただきたいことがありまして」


 ナジーがおどけて尋ねると、スヴェンは「喜んで」と穏やかながら茶目っ気のある声で応じてくれた。

 

「中に入られましたら、鞄の中にある私の楽譜を持ってきていただきたいのです」

「それはお安い御用だが、鞄ごとでなくていいのかい?」


 スヴェンの懸念はもっともで、救助が来るまでは自室より広間などみんなで固まるだろう。

 だからこそ最後のチャンスになるかもと思い、自室に戻ってきたのだ。

 だが、目が見えないナジーが緊急時に鞄を取り回せるとも思えない。

 その点、楽譜は畳んでポケットに入れてしまえば嵩張らずに済む。


「ええ、貴重品は持ち歩いておりますから。ただ、何かがあったときのために楽譜だけは肌身離さず持っておきたくて」

「なるほどね、分かったよ」


 ナジーの出自を知っているスヴェンは、意図を理解してくれたらしい。

 スヴェンの優しい声に満足して、ナジーはポケットから鍵を出した。

 ナジーが鍵を開けると、スヴェンがスマートに前に出て扉を開けてくれる。

 

 手を引かれて室内に入り__その刹那、スヴェンのコロンとは違う香りがナジーの鼻を突いた。



 明らかに男性物のコロンで、嗅いだことがある香りである。

 何故、と訝しむ前に香りに混ざる鉄の臭気にナジーは強くスヴェンの腕を引いた。


「ナジー嬢?」

「__スヴェンさん、逃げて!」

「……よく気づきましたねぇ、見えもしないのに」


 やってしまった。

 相手が隠れていたのなら何事もない風を装って出れば良かったのに、悲鳴を上げてしまった。

 後悔してももう遅い。

 

「君は……マッカラン君か? しかし、その髪は……」

「新調したんですよ、似合うでしょう? まあ、そこのご婦人には見えないでしょうけどね」


 愉悦と悪意の混じった声がナジーを捉える。

 おそらく、ナジーとスヴェンの前には隠れることをやめたコーデルが立っているのだろう。

 ナジーに分かるのは、そのコーデルが血塗れだということくらいである。



✧Side Sven ✧


 

 ナジーが目にすることはない惨状を前にして、スヴェンは身じろぎ一つ打てずにいた。

 少しでも動けば殺される。

 野生の獣と対峙したときと同じ気持ちで、ただコーデルの細められた目を見つめていた。

 

 その目にかかる前髪は混じりっけのない金髪で、コーデルの額や首筋には血が滴っている。

 元の髪色はヴァイオレットとバーミリオンが入り交じった複雑なものだったはずだ。

 しかし、何より特質すべきは頭部ではなく全身である。

 

 スヴェンから見えるコーデルの前身は、刺されたかのように血で汚れていた。

 いや、刺したのか。__一体、誰を?

 

「その、血は一体どうしたんだい?」

「ああ、これですか?」


 はしたなくて申し訳ございません、と慇懃無礼に紳士の礼で頭を下げたコーデルは歪に頬を歪めた。

 

「平素であれば決して他人様の前にこのような姿では現れないのですが……今回は興奮が抑えきれず。それに、今回は時間も逃げ場もないでしょう? でしたらいっそ、皆様の望む犯人として名乗り上げようかと思いまして」


 

 コーデルは見せびらかすように金髪を翻した。

 コーデルが頭部から垂らした背中まで届く金糸が、照明に照らされて目映く輝く。その金の髪は所々が赤黒く汚れていた。

 

「何より、この新しい私の美しい髪を早く皆様にご覧に入れたかったのです」

「自白かい? では、オーウェンもベルボーイの彼も君が殺害したと?」

「Mr.オーウェンもベルボーイの少年も美しい髪でしたから、私でもおかしくはありませんね。ですが、今回の私が一番欲しいと思ったのはこの麗しい金の髪なのです」

 

 うっとりとしながらコーデルが自身の髪を撫でる。

 しかし本来、ホテルに残っている人物で金髪なのは一人だけだった。


 

✧Side Isaac ✧


 

 デイジーが戻らない、と気づいたのはティーパーティーの後のことだ。

 パーティー前にエルロックへ渡す資料をウズリフに手渡した後、デイジーは所用を片付けると言い残して持ち場であるフロントへと戻っていった。

 

 だが、アイザックが同じく所用でフロントに向かうと、そこにいたのはおよそフロントマンは務められないだろうアビゲイルである。

 

「君がここに座ってるだなんて、明日はいきなり夏日にでもなりそうだ」

 

 ひえっ、と小さく悲鳴を上げて飛び上がったアビゲイルは、アイザックの顔を見るなり不安と安堵が半々といった顔を慌てて伏せた。彼女が人の目を見て話せないことはホテルに勤めだした頃に聞いており、すでに慣れ親しんでさえいる。

 

 アビゲイルもアイザックが説明を求めていると察したのか、顔を斜め横に伏せたまま「えっと……」と言葉を紡ぎ出した。

 

「で、ででででデイジーさんは客室のほうで、ど、どうしても気になることがあると仰って……それでもフロントは空けられないからと……!」

 

 小さな震え声による説明いわく、アビゲイルは席を外したいデイジーに運悪く出くわしたらしい。

 そのまま半ば強引にフロントへ押し込められてしまい、まんじりともせずに立ちすくんでいたのだろう。

 

 極度の人見知りであるアビゲイルになんと酷なことを、と思わないでもないが大雪のせいで外部客が来るとすればヴェルナーのような遭難した者くらいだ。

 

 内部の客も大半はティーパーティーに参加しており、姿を見せなかったのは命より大事だという仕事道具を取りに行ったままのコーデルと、エンバーマーだと名乗ったジェシカだけである。

 

 正直、俺としてはジェシカ・ネクロ氏はかなり怪しいって踏んでるんだけどね。

 

 今のところ見つかった遺体にはエンバーミングが施されており、特殊な技能が必要となる。正式な検死どころか警察すら介入されていない状態で行われた精緻なエンバーミングは、それだけで司法妨害に該当する。

 

 エンバーマーのジェシカ・ネクロは司法妨害において第一容疑者であり、殺人容疑もかかっている状態だ。

 ホテル・カサブランカでデイジーの甥として勤め始めてから随分経つが、このタイミングでフロントを抜けるデイジーの行動は何かしらのサインだとアイザックは判断した。

 

「デイジーさん、客室のどこに行くかって言ってた?」

「へ? あ、ええっと……確か、三階へ行かれると……」

「ありがとう、ちょっと急ぎの用だから俺も行ってみるわ。もし戻ってきたら甥っ子が探してたって伝えといて」

 

 てっきりフロント番を代わってもらえると思っていたらしいアビゲイルの悲鳴を背中で聞きながら、アイザックはさっさとエレベーターに乗り込んだ。


 

✧Side Najee ✧


 

 エレベーターのチン、という軽快な到着音を聞きつけ、ナジーは総身が震えた。

 恐らく、コーデルは誰かを殺した状態でナジーの部屋に侵入している。

 スヴェンが聞き出した情報でナジーが分かっていることは、金髪と思われる髪色に変化した血濡れのコーデルが虎視眈々と次の獲物を狙っていることだ。

 

 コーデルの部屋は確か、ナジーの正面である207Nである。

 もしコーデルが自室で誰かを殺した興奮状態でナジーを狙ったのだとしたら、好みの獲物というより手っ取り早さを選んだだろう。

 

 シリアルキラーは好みにうるさいと聞いていたが、過度の興奮状態では適応されないらしい。

 ナジーは濡烏色の髪だが特段美しいと褒められたことはなく、何よりコーデルが言う金髪には一切当てはまらない。

 

 戻ってきてしまった点においては運が悪いとしか言いようがないが、そろりと自分を庇うように伸ばされたスヴェンの手の感触に息を呑んだ。

 

「こんなことを言っては大変失礼だが……では、なぜナジー嬢の部屋に?」

「運良く鍵を入手しましてね、手近な部屋でまずは試してみようかと」

 

 なるほど、本当に自分は運がないらしい。そんな自分に付き添ってくれたスヴェンへの罪悪感が湧く。

 ナジーが身体を震わせるより先に、スヴェンに渾身の力で突き飛ばされた。

 扉は閉めたと思っていたが、ナジーの身体は誰かにしっかりと支えられる。

 

「早く逃げて!」

 

 鋭く叫ばれながら、またナジーの身体は半ば放り出される形で部屋から追い出された。

 声からして、従業員の青年のようである。

 もつれる足を叱咤しながら、ナジーは駆け出した。


 

✧Side Isaac ✧


 

 エレベーターを降りて廊下を見渡しても、デイジーの姿はない。

 だが、代わりに気がついた違和感に、アイザックは自然と足音を殺していた。ナジーが宿泊する206Iの扉が中途半端に開いており、僅かに鉄の香りが鼻につく。

 

 用心のために懐へ忍ばせてきた獲物に手が伸びつつ壁伝いに移動すると、207N前に付けられた符牒が目に入った。

 デイジーが日頃から使ういくつかのサインのうちでも『最優先』のものである。

 

 悩んだのは一瞬で、先に207Nを覗き__アイザックは踵を返した。

 前を向いても後ろを向いても、そこには凄惨な現実しかない。 

 ならば、優先順位はすでに事切れている同じスタッフではなく、今危機に瀕しているお客様だ。

 

「おやおや、お客様が変更になりましたね」

 


 207Nに飛び込むとちょうどスヴェンによってナジーが外に出された瞬間だった。反射で受け止めて、そのまま外へと逃がす。

 当のスヴェンは身体を張ってナジーを守った結果か、腹部から出血していた。それもすぐに凶器を引き抜かれたのか、出血が多い。

 

「__お客様、どうされたのでしょうか?」

「いやなに、理想的な髪を所望しただけですよ。いつもでしたら手間と時間をかけて作業をするのですが、これもなかなかどうして。これっぽっちも科学的な話ではないんですが、不思議と頭皮そのものを被るほうが馴染み良いようなんですよね」

「被る? 馴染む? まるでご自身の毛髪が一切ないような仰りようですね」


 嘲りと純粋な疑問の半々で投げた台詞は、コーデルの地雷を踏み抜いたらしい。コーデルは猛然と襲いかかってきた。

 

 膠着状態が解かれた瞬間なので、アイザックはスヴェンの前に躍り出た。

 コーデルの獲物は理容師らしくハサミである。初撃を躱し、アイザックは隠し持っていた警棒でしたたかに凶器を持つ腕を打った。

 

 コーデルは少なくともデイジーを殺している。

 今いる206Iの目の前の部屋に転がっていたのは、喉笛を掻き切られた上に頭皮を丸ごと剥がされたデイジーの遺体だ。

 

 遺体の特徴と状況証拠から見て、コーデルは地元警察が中央から人を呼ぶレベルと判断したシリアルキラー「エンディング・ヘアドレッサー」だ。

 腕をたたき折ることに躊躇するはずがない。

 

 アイザックが力任せに振り下ろした警棒に打たれ、コーデルの手から凶器が滑り落ちる。

 その刹那、デイジーのものだった金髪の頭皮もずるりと床に落ちた。



「あ……」


 声を漏らしたのはコーデル自身である。

 他の人間は異常な光景に言葉を失っていた。

 呆然と立ち尽くす恐ろしき殺人鬼の頭には、血糊しか付いていなかったからだ。


 

✧Side Eleanor ✧


 

 部屋に戻った後、エレノアに「お部屋にいてくださいね」と言い置いて出て行ったスキアーが戻ってこない。

 もう少しだけ待ってみよう、そう思って三回目。エレノアは部屋から飛び出していた。

 

 お茶会は楽しかった。

 だが、このホテルには今恐ろしい殺人鬼がいるのだ。

 犯人は今のところ男性ばかりを殺している。スキアーとて安全ではないはずだ。

 

 コフィンの部屋へ行く前に、とスキアーはお茶と夜食を取りにキッチンへと向かった。

 夜になってから降りるよりは安全であり、時間を忘れてエレノアが絵の話に熱中できるようにという配慮からである。

 

 温室からの流れでキッチンに寄れば良かったのでは、というエレノアの質問には「主に給仕の付き合いをさせるわけにはいかない」という彼の矜恃が返ってきた。

 

 第二の被害現場である書斎に近いキッチンに近寄らせたくないという配慮も窺えて、素直に従った自分を責めながらエレノアは初めて一人でエレベーターを下った。

 

 コフィンはエレノアらと同じ三階の部屋を取っているので、先に寄った可能性は考えなかった。エレベーターからはエレノアの部屋のほうがずっと近い。


 恋ってすごいわ。

 私、スキアーのためならちっとも怖くないんだもの。

 

 エレベーターの操作方法は、見て覚えている。

 焦れるような思いでエレベーターが止まるのを待ち、降りるなり駆け出していた。

 

 叱られたっていい。あの人が無事ならそれで。

 紅茶が飲めなくても、ひもじくなってもちっとも構わないから。


 駆け出すといってもエレベーターから書斎、キッチンまではほど近い。

 書斎を抜けてキッチンの戸を力任せに押すと、ちょうどキッチンから中庭に出ていたらしいホテルスタッフの男性と目が合った。

 確か、亡きオーナーに代わってスタッフに指示を出している二人のうちの一人だ。

 

「ポートマン様? いかがなさいましたか?」

「あ、えっと……」

 

 事件の最中にあっても優雅さを保つ執事のような赤毛の男性に、エレノアはほとんど泣き縋った。

 

「あの、スキアーさんを……私と一緒にいた殿方をご存じありませんか!?」

「彼でしたら、キッチンに入った後そのまま一度外に出られて……」


 外に出るとすれば正面玄関か。

 聞くなり、エレノアは礼もそこそこに元来た扉を振り返った。迷いなく駆け出そうとしたエレノアを、赤毛の男性がやんわりと止める。

 

「いえ、そちらではなくこちらの扉からです。レディ」

 

 赤毛の男性がちょうど出てきたキッチンの奥の扉は焼却炉横に出るという。そこからスキアーは出たらしい。

 

 なぜ、とは思わなかった。

 そんなことはどうでもいい。一目無事な姿が確認できたら。

 

 赤毛の男性はちょうど焼却炉を使用していたのか、また雪が降ってきた厚い曇り空の下では廃棄物を燃やす炎が煌々と照っていた。

 

「ああ、申し訳ございません! ちょうど廃棄物の処理をしており焼却炉付近はお近づきにならないよう……」


 言われるまでもなく、焼却炉付近は何かナマモノでも燃やしたのか酷い匂いだった。

 たたらを踏むように焼却炉から遠のきつつ、エレノアは周囲を見回した。

 

「スキアーさん……スキアー、スキアー! どこですか!?」


 淑女は大きな声で話してはならない。

 躾通りに生きてきたせいで、大声を出し慣れていない喉が引き攣る。迷子の子どものようにスキアーの名前を呼びながら、エレノアの足はその場でタップを踏んだ。

 

 慄いたわけではない。

 どこに足を向けたらいいのか分からないのだ。

 不意に自分の真後ろで地響きがするような「ドンッ」という衝撃が起きた。


「ポートマン様!」

 

 衝撃音と同時に鋭く呼ばれ、エレノアも反射的に音の方へと振り返る。

 すると泡食って駆けつけてきたらしい赤毛の男性が、自分の前に立ちはだかっていた。

 襲うようにではなく、背中に庇われている。

 庇われているということは__危機が迫っているということだ。


 衝撃音は上から来たものだった。

 正しく言えば、何かが落ちてきた。

 エレノアの耳に入るのは自分と目の前の男の押し殺した吐息の音と、獣のような唸り声である。

 

「な、なにが……」

「動いてはいけません。私が合図をしたら、扉まで走ってください」

 

 大きな背中に庇われながら指示され、エレノアは頷くこともできない。

 身じろぎしたら、赤毛の男性の前にある脅威が見えてしまう気がした。

 怖いものが、目の前にいる。

 

「……くも、」


 地を這う声が雪の上を伝ってくる。

 目の前の肩が強ばり、エレノアは我知らず震えた足が後ろに一歩逃げた。

 獲物が逃げると思ったのか、それとも獲物は自分自身の衝動を吐き出そうとしているのか。脅威の慟哭がホテル・カサブランカの中庭に振動した。

 

「よくもよくもよくもおおおおおお――――!!!!!!!」

「今です!」


 足は意外なほどスムーズに動いてくれた。

 弾かれたように走り出し、エレノアの足は信じられないほど速く扉の前へと辿り着いた。ドアノブにしがみつき、とっさにキッチンへと逃げ込もうとする。

 

 でも、あの人は?


 先ほど、エレノアの後ろに落ちてきたのは悪魔と呼んで差し支えない存在だ。常軌を逸した何かが降ってきて、赤毛の男性は今自分を逃がすために戦ってくれている。

 見捨てることはできなかった。

 

 首だけで後ろを向くと、赤毛の男性につかみかかっていたのは禿頭の男だった。エレノアから見える範囲の禿頭の男はどこもかしこも血に染まっており、明らかに正気ではない。

 赤毛の男性はなんとか男を制しようとするが、腕を捕まえるので精一杯のようだった。

 

「ウズリフさん!!」


 男が飛び降りてきた部屋からだろうか。若い男性スタッフが蒼ざめた顔で見下ろしており、その顔はすぐに引っ込む。恐らく助けに来てくれるつもりなのだ。

 自分もどうにかして、と思うのに今度こそ足が動かない。


 震えたエレノアの手はドアノブを握りしめるばかりで、生まれて初めて見る荒事から恐ろしすぎて目が離せない。

 男性二人の取っ組み合いは拮抗しており、押さえ込もうとする赤毛の男性に対して禿頭の男は噛みつかんばかりの勢いでがむしゃらに暴れている。

 

 まさか、この人が__?

 

 まさに殺人鬼といった様相の男を、ウズリフと呼ばれた赤毛の男性は「マッカラン様」と呼んだ。マッカランはエレノアと同じ宿泊客の一人だったはずである。

 その男性は、奇抜ながらも美しい髪を持っていたはずだ。

 

 隙あらば殺す、もしくは逃げ出そうとするマッカランをウズリフは渾身の力で捕まえようとしており、二人の身体は徐々に焼却炉へと向かっていく。マッカランはウズリフを焼却炉に押しつけようと躍起になっているようだった。

 焼却炉は今、作業をしていたウズリフが開けたままの状態である。

 

 時折焼却炉から散る火の粉が、ついに蛇の舌のごとくウズリフの肘辺りを舐めだした。

 

「こ、の……ッ!」


 刹那。

 ウズリフの身体が反転する。上半身が倒されかけた体勢のまま、ウズリフはマッカランに足払いをかけた。ウズリフを焼却炉に落とすことにしか意識がいっていなかったらしいマッカランの身体はあっさりとバランスを崩し、__自ら吸い込まれるように焼却炉へと落ちた。



 ウズリフの髪を鷲掴んだまま。

 

「いや、いや……いやいやいや――ァァァアアアア!!」


 

 悲鳴が勝手に口から飛び出す。目が焼けるような光景だった。

 焼却炉はそう大きなものではない。男性二人を飲み込めなかった炎はまずウズリフの上半身を灼き、最終的には全てを包んでいく。

 

 狂人を追ってきた他のスタッフやスキアーが到着する頃にはエレノアの目の前で男性が二人、喘ぐことも出来ずに死んでいた。



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