第二話


- Good Morning! -

✧ Side Snow ✧



 悲鳴は三階にまで響いていた。

 しかし声は遠く、この階から聞こえたものではない。そうでなくとも「ホテル・カサブランカ」はしっかりとした造りで、扉が閉まっていると隣室の物音さえ大して響かないが、異様さに勘づいた幾人かが部屋から顔を出した。

 

 筆頭は自称探偵で「エルロック」と名乗った男性である。昨晩とあまり変わらない格好で飛び出してきたところを見ると、寝ていないのか無頓着なのか怪しいところだ。次いで記者だと名乗っていた「クレア」という赤みがかった茶髪の女性が扉を素早く開け放って廊下に出てきたが、こちらはネグリジェ姿だったのでスノーはさりげなく目線を逸らした。

 エレベーターが中心となるこの棟において、部屋割りで両端だった二人に聞こえてきたあたり、少なくとも起きていれば今の悲鳴は三階に宿泊する全員の耳に届いたことになる。

 

「なんだ、事件か!?」

「今の悲鳴!?」

「ひ、悲鳴だとは思います。事件かどうかとか、どこから聞こえたのかはわかりませんが……」

 

 慄いた、を通り越して怯えきった様子の客室係ことアビゲイルに代わって、それぞれ投げてきた質問にスノーが答える。

 スノーとアビゲイルが聞いた悲鳴は、かなり遠くから響いた印象だ。

 それこそ、部屋の中にいて寝入っていたら気付かないような音だと思ったが、スノー達がいたのは廊下だったので、はっきりと「女性の悲鳴」だと断言できる。しかし、悲鳴が何階のどこから聞こえたかまではわからない。だが、逆にわかることもあった。

 

「少なくとも、この階からではないと思います。二階か、一階か」

 

 悲鳴はエコーがかっていた上に、直線的には聞こえなかった。

 同じ棟内から聞こえたのは間違いないが、同じ階からだとしたら先ほどの悲鳴はもっと鼓膜をつんざくように聞こえたはずである。

 

 スノーの所感を聞くなり、エルロックとクレアがそれぞれの位置からダッシュしたのはエレベーターホールだ。非常階段は屋外に設置されているので、吹雪直後は雪が積もるか凍るかしていて駆け下りるには危うい。その程度の危機感は持ち合わせているのか__はたまた非常階段の存在を忘れているのかは不明だが、スノーが思わず追いかけた先には、エレベーターの呼び出しボタンを必死に連打するエルロックとクレアの姿があった。

 

✧✦✧

 

 結論から言うと、事件は一階で起こっていた。

 焦らすような速度で一階から到着したエレベーターに乗り込み、クレアとエルロックはそれぞれ行き先として一階と二階を押した。二階を押したのはクレアで、一階を押したのはエルロックである。

 最新式と違って階数の取り消し機能などはなく、当然エレベーターの中では睨み合いが始まった。

 

「なんで一階なんて押したの? それぞれ三階の奥まった部屋に割り当てられた私達の耳にも悲鳴は聞こえた。ということは三階じゃないにしても、二階で事件が起こったと考えるのが妥当でしょう」

「おやおや、これだから素人さんは困る」

 

 嘲笑しながらエルロックは、軽く指を曲げた左手で自身の細い顎をさすった。そして長身ゆえかわざとか、クレアを見下ろしながら鼻を鳴らす。

 

「このホテルの見取り図を確認しなかったのですか? 一階と二階は大階段で繋がっていて、室内でもない限り悲鳴は一階からでも通るはずです。それにこれが__例えば殺人事件の幕開けだとしたら? 明確な出入り口はロビーの大玄関だけ。他の出口も当然一階にあるでしょう。まずはそこから押さえなければ、犯人を取り逃してしまいますから」

 

 エルロックが展開した悲惨な予想図に、成り行きで一緒にエレベーターへ乗り込んだスノーとアビゲイルは息を呑んだ。

 不遜に言い返したのは、先に煽られたクレアだけである。

 

「悲鳴一つでそんな物騒な考えを? 嫌ね、探偵とヤードって職業は」

「ヤードと探偵は猫とネズミの関係ですよ、レディ」

「記者にとってはどっちも変わらないわよ。__でもいいわ、じゃあ一階で降りましょう。そこの探偵さんの言うとおり、一階から二階はすぐにいけるしね」

 

 

 二階を素通りし一階で全員がエレベーターを降りると、すでにフロント前には人が集まっていた。

 一同の中にはモルゲンシュテルン卿ことスヴェンと、小児科医の卵だというギャスパルが見える。他はホテルのスタッフと思しき面々で、スノーは中でも気安い顔に声を掛けた。

 

「ダニー、何が起こったの?」

「す、スノー様……お騒がせしてしまい、申し訳ありません」


 ダニーは蒼ざめた顔で気分悪そうに口元を押さえつつ、ホテルマンらしい陳謝を口にする。だが、目線はすぐにフロント脇の大階段へと戻った。

 

「実は支配人……お、オーウェン様が……」


 異様さに勘づいたのか、すぐさまエルロックが人垣をかき分けて最前列へ躍り出た。クレアも続く。

 好奇心からスノーも続いて__絶句した。

 大階段の前はぽっかりと結界でも張られたかのように空間が空いていて、床にはオーウェンが仰向けで倒れていた。



 ただし、その顔は文字通り“ぽっかり”と風穴が開いていて、スノーにも“あれ”がオーウェンだとわかったのは、顔以外の特徴が一致しているからに他ならない。

 人目を引く美しい銀髪に、精緻な刺繍が施された白の燕尾服。それ以外にわかるのは、長身痩躯の男性の死体であることだけである。

 

 あれがよく出来た人形なら趣味は悪いが、まだマシだ。

 人なら__人間ならば、生きてはいまい。

 美しかった顔の面から脳までを丸々と抉るように開いた大きな穴の中心には、悪趣味の極みの如く一輪の真紅の薔薇が生けるように飾られている。

 とっさにこみ上げてきた吐き気を、スノーは必死に呑み込んだ。

 

「大丈夫か?」


 後ろから不意に声をかけられ、スノーの肩と心臓は大げさなほどに揺れた。

 振り返ると、騒ぎを聞きつけたのかいつの間にかヴェルナーが心配げな顔で立っていた。服装が昨日と変わらないのはエルロックと同じだが、彼は行き倒れだったので不思議ではない。

 ヴェルナーの大きな手は支えるようにスノーの肩を掴んでいて、その“生きている”暖かさに少しだけ安堵した。

 

「だ、大丈夫です。それよりミスターオーウェンが……!」

「ああ、ここからでも見えるが……あれは本物の死体だろうな」


 スノーを見遣る気遣わしげな瞳とは違う、よく研がれたナイフを思わせる鋭い視線でヴェルナーは倒れている人物を凝視していた。

 その間にもエルロックはいち早く混乱から脱出し「ギャスパル君!」と叫んでいる。

 

「僕の見たところ、これは本物の死体なので、検死を頼みたい。本物か作り物か含めてね。ちなみに本物だとして、死因と死亡推定時刻は?」

「はあ!? そんなもん、わかるわけないじゃないですか! 言ったでしょ、僕は小児科医を目指す学生で……」

「医学部は専門分野に進む前に一通り学ぶだろう! ほら、早く見てくれ!」

「嫌です! 無理です!」




 首が千切れんばかりに首を横に振るギャスパルの腕を引きながら、エルロックは「第一発見者は?」と周囲を見渡す。

 すると「デイジー」と呼ばれていたフロントクラークの女性が、控えめに「私です」と言いつつ一歩前に出てきた。その後に昨晩、給仕を行ってくれたベネロペがついてくる。



 ベネロペは萎れた様子で、デイジーの後ろに隠れるように佇んでいた。

 晩餐の弾けるような笑顔が霞む様子に、かなりのショックを受けていることがわかる。職場の上司が惨殺死体になれば当然の反応だろう。スノーの目には、むしろデイジーの沈着冷静な様子が異様に見えた。

 

「なるほど。お二人とも、犯人は見ましたか?」

「は、犯人?」


 怯懦の面持ちで驚くベネロペに、エルロックは当たり前のように頷く。

 その間も、エルロックの手は逃げようともがくギャスパルの腕を掴んで離さない。かなり暴れられているのにエルロックの体幹は微動だにもしない。ギャスパルが非力なのか、エルロックが怪力なのかは謎である。

 エルロックは名探偵さながらの風格で、革手袋に覆われた左手の人差し指を遺体の頭部へと向けた。

 

「ええ、こんなこと自演では難しいでしょう? 死因究明はこれからこのギャスパル君が行ってくれますが、少なくともこの薔薇を被害者本人が飾ることは不可能です」

「ええ!?」


 ちなみに驚きの声を上げたのは、デイジーでもベネロペでもない。

 当然、検死役に任命されたギャスパルのものである。

 

✧✦✧

 

 「下手に動かすよりも、警察を呼んだほうがいいんじゃないのか」


 エルロックと格闘していたギャスパルに救いの手を差し伸べたのは、これまで黙ってことの成り行きを見守っていたスヴェンだった。至極真っ当な意見に、素早く動いたのはデイジーである。


「すぐに連絡いたします……念のため、救急隊も」

「そうだね。事切れていることは確かだが、警察に連絡をしたら適切な指示をくれるだろう」


 デイジーがフロントに消え、残った面々は所在なさげに各々オーウェンの亡骸を眺めていた。

 顔の中心部が丸ごと抉り取られたせいで剥き出しとなった頭部の骨や脂肪は、パニック映画の比にならないほどグロテスクである。しかし、花瓶代わりにされた不気味な入れ物からは、目を逸らすことさえ許さないような迫力を感じさせた。


「なんで、血が出てないんでしょうか……」

「妥当に考えるなら、彼が死んだ現場がここではないからだろうな」


 思わずこぼれたスノーの独り言を拾ったヴェルナーが、淡々と考察を述べる。彼の言う通り、ここで頭部をくり抜かれたら辺り一面は血の海となっているだろう。


 じゃあ、彼は一体どこで殺された?


 ふと脳裏に浮かんだ“殺された”という考えに、スノーはひゅっと息を呑んだ。

 エルロックがエレベーター内で言った物騒な戯れ言は、現実となってしまった。


 階段の上から一人で落ちたのなら血痕が残り、顔も残っているはずである。人間は自分一人で自分の顔に穴を開けることも、空いた穴に薔薇を生けることも出来はしない。

 だとすればこれは殺人と考えるのが自然で、殺人じゃないとしても協力者がいなければあり得ない惨状である。


 そして何より、オーウェンが“死んだ”場所を想像すればするほど、スノーにはこのホテルの内部以外にはありえない気がした。

 窺い見た窓の外は、昨日にも増して酷い吹雪になっている。これではどちらにせよ、非常階段なんて使えなかった。

 美しいはずのホテルの庭園は完全にホワイトアウトしており、窓を突き破る勢いの風は冷たく硬い雪を孕んでいる。侵入も脱出も、安易にできるものではない。


 だったら、ホテルの中で殺してここに転がしたって考えるほうがよほど__


「ああ、俺もそう思うよ」


 心を読んだようなタイミングのヴェルナーの台詞に、スノーはびくりと肩を振るわせてヴェルナーの顔を仰ぎ見た。するとヴェルナーは、人形じみた顔であっさりと「声に出ていた」と種明かしをしてみせた。

 完全に無意識だったので、スノーは首を竦める。自分の口から漏れた不謹慎な発言を恥じた。


「そうだったんですね……すみません」

「気にすることはない。あんなものを見れば、誰だって不安に駆られる。一部の人間は喜んでいるようにも見えるが」


 ふと遠い目をしたヴェルナーの視線の先を追うと、未だ張り切った様子のエルロックがどこからかカメラを持ってきて、あれこれギャスパルに指示をしながら遺体の写真を撮っていた。スノーは思わず悪趣味だと眉を顰めかけたが、すぐに現場保存のためだと察した。


 確かに、この雪では警察がいつ到着できるかはわからない。

 警察に連絡をしに行ったはずのデイジーが戻ってこない以上、下手に動くこともできないが、写真を撮って遺体に変化が起こるはずもないだろう。自称探偵もさすがにその辺りは弁えているのか、遺体には指一本触れずに現場の様子をカメラに収めていた。


 クレアもメモを取りながら、エルロック同様ギャスパルにあれこれ指示を出していた。こちらは記者の本能なのか、エルロックに負けず劣らず生き生きとした様子である。


「そうだ、誰かこのホテルにいる全員を集めてくれませんか?」


 撮影する手を止めないまま、エルロックが突然声を張った。

 意図を訊かれるより先に「まずは他の人間の無事も確認しないといけませんから」とさも当たり前のように続ける。殺人の線はエルロック自身が言い出したことで、犯人がホテルの内部にいると仮定するなら当然の懸念である。


 現場には悲鳴を聞いて駆けつけたスノー達と、朝食前にホテル内を散策しようとたまたま一階に降りてきていたスヴェンとギャスパル。あとは複数名のホテルスタッフしかいまだここにはいない。朝食の時間までまだ少し時間があるせいか、悲鳴に怯えたのか、他の宿泊客やスタッフは姿形も見えなかった。

 

「ああ、もちろんホテルスタッフも含め、全員ですよ。場所は昨日、晩餐会が開かれたホールがいいでしょう。あと、このホテルの詳細な見取り図をください。裏口まで含め、昨晩から今朝にかけて、出入りした人間がいないか確認しなければ!」


 俄然張り切った様子のエルロックが指示を飛ばしたところで、デイジーが戻ってきた。その顔は、雪のように真っ白である。


「警察に連絡したのですが……やはりすぐに駆けつけることはできないそうです。少なくとも、この吹雪が止まない限りは」

「ふむ、すなわち今ここは陸の孤島というわけですね。ミステリーの舞台らしくなってきたじゃないか」

「あいにく、それを喜んでいるのは君くらいだと思うがね。ミスターホームズ」


 すかさずスヴェンが姓というより探偵の代名詞としてエルロックを皮肉ったが、彼はむしろ嬉しそうに目を爛々と輝かせた。


「ええ、ホームズの名に恥じない活躍をお約束しましょう」


✧✦✧

 

 スタッフによって集められた宿泊客達は、支配人の末路を聞いて現場に居合わせた顔以外は一様に蒼ざめた。

 ドアマンであるベルントにより、昨晩の施錠以降ホテルへ誰かが出入りした痕跡が見受けられないことを報告され、それぞれ懐疑的な面持ちでお互いの顔を見詰めている。

 

 この中に犯人がいるかもしれない。

 誰も口にしないが、全員が同じことを考えていることはスノーにも痛いほど伝わってきた。


 

 緊急事態ということで各自預けていたスマートフォンなどの通信機器が一時返却されたが、警察でさえ近寄れないホテルに助けが来るとも思えず、スノーは手持ち無沙汰に機械を握りしめる。何人かは液晶を眺めて舌打ちをし、無線ネットワークが切れていることが判明した。

 

 外部と連絡が取れるのは、有線で繋がっているというフロントの電話だけだろう、

 だがそれも、いつ切れてしまうかわからない。

 警察が早いか、本当に陸の孤島となってしまうのか。雪が止む気配は今のところない。

 

「あの……」


 そろそろと手を挙げたのは、晩餐で一際おどおどとしていたジェシカである。

 全員の視線が集まったせいでジェシカは怯えきった顔になったが、意を決したように口を開いた。

 

「ご遺体は……その、どうなるのでしょうか」

「警察からは、できるだけ動かさず誰も触れないようにと」


 唯一警察とやり取りをしたデイジーが答えるが、ジェシカは弱々しく首を振る。

 

「いくらこのホテルのロビーが凍えるほど寒くても、各部屋からの暖気は伝わるでしょう。そうでなくとも損傷の激しいご遺体ですし、このまま……い、いつ到着するかわからない警察を待って何もしないのは……その、やめたほうがいいと思います。えっと、皆さんの精神衛生上のためにも」

「それは言えているな。あんなに目立つ場所にあったんじゃ、どうしても目に入るしね」

「ええ……私は目が見えませんが、かぐわってくる匂いだけでも恐ろしいです。どこか別室に安置できないのでしょうか。それこそ、故人を労るためにも」


 ジェシカの言葉に年長者であるスヴェンが頷き、ナジーも控えめに同意する。他の宿泊客達も概ね同意見のようだった。

 唯一この事態でもマイペースを保っているのはクリエイターだというコフィンくらいで、眠っていたところを叩き起こされたのか、まだ眠たそうに壁にもたれかかっている。

 

「申し訳ございません、お嬢様の具合が芳しくないので、私どもは部屋に戻らせていただいてもよろしいでしょうか」

 

 仮面姿のスキアーが、用は終わったとばかりに隣でふらつくエレノアを支えながら、スヴェンに伺う。

 取り仕切りたがっているのはエルロックだが、身分と威厳がそうさせるのかこの場において発言権が強いのは誰の目から見てもスヴェンのようである。彼自身自覚しているのか悩ましげに眉間に皺を寄せた。

 

「そうさせてあげたいのは山々だが、今部屋に戻るほうが危険じゃないかね? ここにいる名探偵は殺人事件だと断定しているし、僕自身同調するわけじゃないが、遺体を直に見てしまうとそう思わざるを得ない状況だ。それも、外は大雪。となると、おのずと犯人はこの

ホテルに潜伏していると考えるのが自然だろう」

「__オーイオイオイ。ご歓談中申し訳ないが、それはあまりにも萎える話じゃない?」


 突如覚醒したがごとく、コフィンがむくりと壁から身体を起こした。

 胡乱げとも眠たげともとれる半開きの眼が、スヴェンを睨む。

 

「人が死んでりゃ、そりゃ殺した奴くらいいるさ。例え、犯人が自分自身だとしてもねン。だけどさァ、要は安心安全を謳いながら全員で見張り合おうって話してンだろ? お貴族様ともあろう者がスラムごっこってのはいただけないね。俺なら殺されるんだとしてもごめんだ。それこそクソを喉に詰まらせるよりもな」


 刺青が這う自分の喉を実際に絞めてみせながら、コフィンは「うえっ」と吐くマネをする。



「残りたい奴はこの場に残るなり、集まるなりすりゃいいじゃん。相手がペニーワイズでもジェイソンでも、それこそブギーマンでも、何人か固まってりゃ生き残れるでしょ。まあ、残る奴がいるならって話だけどォ、俺は当然パスだから。どんなご馳走でも、クソ混じりならそりゃただのクソだし、クソ溜まりにいるほどヒマじゃないってね」

「__それは、犯人と疑われても構わないと?」


 エルロックが鋭く切り込んでも、コフィンは不遜に笑うだけだった。

 

「知ってた? クリエイターって、ブタ箱にぶち込まれるほうが作品価値上がるって。クソ溜まりよりはブタ箱のほうがなんぼかマシだね」


 先導するように大広間を後にするコフィンを追うようにして、エレノアを伴ったスキアーも「我々は部屋におります。もし疑われるようでしたら、監視役をつけていただいても構いませんので」と言い置いて出て行く。エレノアは一言でも話せば嘔吐してしまいそうな顔色で、力なくスキアーに連れられていった。

 

 ダメ押しのようにコフィンは「片付けられる前に、噂の花瓶でも見に行こ~っと」などと呟いていったので、ジェシカまで泡食ったように追いかけていってしまう。



 仕事道具を取りに行きたいというコーデルも部屋に戻り、結果的に大広間に残ったのはスノーを含め、宿泊客十二名中七名だ。

 

 七名いたホテルスタッフも、出て行く宿泊客にあわせて四名が退室している。

 残っているのは、デイジーとベネロペ、そしてアビゲイルだ。

 今朝までの間にスタッフ全員と顔を合わせていたと知り、スノーは内心驚いてしまった。トップを失った七名は、それでも各々自分の仕事をするつもりらしい。

 

「まあ、全員が素直に残るとも思わなかったけどね」


 スヴェンが眉間の皺を解しながら深く息を吐いた。

 意外にも残ったヴェルナーが、エルロックに近づいていく。エルロックの横では逃げ損ねたギャスパルが涙目で呻いていたが、ヴェルナーも慣れてしまったのか気にした素振りさえ見せない。

 

「さっき撮っていた写真はすぐに現像できるのか?」

「ええ、プリンターがあるそうですから。どちらにせよ、遺体は動かすことになりそうですしね」

「では、写真を確認してから遺体を動かそう。写真を警察に共有できたらいいんだが……」

「有線でのネット回線が生きていれば、あるいは」


 確認するためにデイジーが持ち場に戻り、大広間には結局九名が残される形となった。

 暖炉が放つ熱気はどこか遠く、憧れのホテルで描いていた夢が悪夢に変わる感覚を噛みしめながら、スノーは呆然と窓の外を見ていた。



✧ Side Daniel ✧




 宿泊客の目がなくなると、スタッフの面々はそれぞれ表情を変えた。

 上役にあたるデイジーやウズリフはさすがに冷静な采配を振るっていたが(デイジーに至っては第一発見者だ)、他のスタッフの動揺は激しい。

 

 中でもデイジーに次ぐ形で支配人の遺体を発見したベネロペの消耗は著しく、ウズリフから自室で休むようにと指示が出された彼女にアイザックが付き添い、二人は大広間を後にしていた。

 

 ウズリフの命でベネロペに替わり、ダニエルが大広間に付き宿泊客達のフォローに回ってはいるが、瞼を閉じるたびにオーウェンの遺体の様子が蘇り、胃から朝に食べたものが込み上げそうになる。仕事をしなければ、という責任感だけでなんとか動けているような状態である。

 

「あの、ダニー大丈夫?」

 

気遣わしげに声を掛けられ、ダニエルははっと顔を上げた。

 

 

「いえ、あの……申し訳ございません、スノー様。ご朝食はいかがなさいますか?」


 取り繕うように尋ねるが、スノーの顔にはでかでかと心配だと書かれたままだ。


 本来なら朝食バイキングが提供される予定だったが、早朝に大階段下で支配人の遺体が発見された上に殺人事件の疑いが濃厚となれば、通常の運営は難しかろう。ウズリフの判断で宿泊客それぞれにリクエストを伺っているが、大広間に残ったメンバーは全員が食事に関して難色を示していた。

 

 当たり前だ。

 あんな惨いものを見た後では。

 

 何度もこみ上げてくる吐き気を飲み下し、震えそうになる身体を必死に押し込める。

 警察の到着が遅れる以上、冷静であらねばならない従業員側であるダニエルでさえ肉料理どころか固形物さえ見たくないのだ。できることなら安全な場所で震えて固まっていたいとすら願う。

 

 ふと、暖かいものが臍の上で固く重ね合わせられていたダニエルの両手を、腹から剥がした。

 反応するより先に両手はその暖かいものに包み込まれ、呼吸が楽になった気がする。

 気付かないうちにまたうつむき加減になっていたらしい顔を上げると、自身も蒼い顔をしたスノーが聖母のような微笑みを浮かべながらダニエルの両手を握っていた。

 

「……朝食は、残念だけど喉を通りそうにないや。その代わり、一緒にお茶を飲んでくれないかな。もちろん、仕事の合間で構わないから」


 よく見るとぎこちなく引きつった笑顔でスノーに乞われる。だが、どれだけスノーが無理をしていようと、励まされているのはどう見てもダニエルの方だ。

 自分も怖いだろうに、スノーはダニエルを元気づけようとしてくれている。

 スノーの手の暖かさにつられるように、血の気が少しずつ戻ってきた。同時に、職務に対する気持ちも。

 

 お客様に心配をかけてどうする。

 ぐっと強く唇を噛みしめてから、ダニエルはふっと笑みを浮かべた。

 半年前に雇用されたばかりの新米ではあるが、サービスについてはウズリフに叩き込まれている。

 いかなるときもお客様を最優先に、お客様の満足度を追求すべし。

 そして、良き思い出と共に笑顔で帰っていただく。

 それが、一流のホテルマンだ。

 これ以上、お客様を不安にさせてはならない。

 

「__っもちろんです! 紅茶はすぐにご用意させていただきますが、その後ぜひご一緒させてください」

「……うん、待ってるよ」


 ダニエルが無理矢理笑顔を作っていることは伝わってしまっただろうが、スノーは手を握る力を緩めてくれた。

 では、と下がる前に握られていた手を去り際に強く握り返す。従業員としては不適応な行動かもしれないが、自分がもらった安心感を少しでもスノーに返したくて、ダニエルは数秒の間スノーの少年らしい小さな手を握りしめた。

 

「ご安心ください、当ホテルはこのくらいじゃ揺らぎません!」


 頬が痛くなるほど口角を上げたダニエルの笑顔に、スノーがようやく相好を崩す。その様子を見てから、やっとダニエルは大広間を後にした。


✧✦✧

 

 バックヤードに戻って報告を済ませると、ウズリフは「では、いつでもつまめる軽食だけご用意しましょう」とアイザックに指示を飛ばした。

 

 通いのコックは昨晩、家族の急病で早退してから来ていないので妥当な采配である。

 アイザックは普段ウェイターだが、腕前は昨晩の晩餐の仕上げを急遽ウズリフと共に任されたほどだ。ダニエルの目には、アイザックが仕上げた皿は料理長が手がけたものと見分けがつかなかった。

 だが、アイザックが任されたということで露呈する問題もある。

 

「あの……今後のお食事の提供ってどうするんですか?」


 ベルボーイの自分が心配することはないかもしれないが、と念頭に置きつつ、ダニエルは恐る恐るウズリフに尋ねた。

 警察がたどり着けないほど、ということは当然コックも出勤できない。食料の備蓄はあるが、作る専任が不在となると安定的な供給は難しくなる。


 そもそもが少数精鋭で回っているホテルなので、誰かが何かしらの業務を兼任することは珍しくないが、いつまで続くかわからない籠城で料理係不在は不安要素でしかない。

 ウズリフも考えていなかったわけではないらしく、悩ましげに眉を寄せつつ口を開いた。

 

「昨晩の晩餐会同様、当面は私とアイザックさんで回します。料理長に比べれば質は落ちますが、アイザックさんは器用ですし、私も調理師免許は取得しています。それに、お菓子とはいえ料理作りは趣味ですから」


 たしかにウズリフが普段からちょっとした菓子からデザートまで甘味類は調理を担当していることは知っていたが、調理師免許まで持っているとは思わなかったダニエルである。

 菓子類以外の腕前を確かめたことはないが、免許を取得できるレベルとなれば心配なさそうだ。

 

「ウズリフさんって、ほんと死角なしですね……」

「いえいえ、そんなことはありませんよ。ただ、カサブランカのホテルマンたるものなんでもできるようになりたいと無節操にあれこれ手を出しているだけです」


 小説かドラマでしかあり得ない状況に陥りながらも、不敵に笑うウズリフは頼もしい。

 しかし、ウズリフが支配人とこのホテルを敬愛していることも、業務の質を落とすまいと彼が無理に笑っていることも知っている。スノーのように表情からは窺い知れない辺り、さすがと言えるだろうが、頼られないことに感じるのは悔しさだ。 

 採用されて半年のダニエルは戦力外かもしれないが、手伝えることはあるはずである。

 スノーに気遣われたような失態はもう冒さない。

 

「あの、僕にできることがあれば何でも言ってください。ベルボーイとしての指導しか受けてないし、それもようやく一人でお任せいただけるようになったばかりですが……」


 ダニエルが思わず口走ると、ウズリフは軽く目を見開いてから「では、頼みます」と微笑んだ。



「大広間から退室されたお客様が全員部屋に戻られたのは確認できましたが、朝食については確認がとれていないようでして。要望がないか訊いてきてくれませんか?」

 

 柔らかな声で下されたのは、要は御用聞きである。しかし、ベルボーイとしては任されない範囲の仕事だ。

 とはいえ、そのくらいなら今のダニエルでも楽勝である。

 

「かしこまりました!」

 

 二つ返事でダニエルが快諾すると、ウズリフは眼を細めた。

 

「助かります。ベルントさんにお客様が部屋に戻られたか確認ついでに訊いてきてほしいと頼んだのですが、最初のお願いしか覚えていなかったようでして……」


 なるほど、眼を細めたのではなくて遠い目をしていたのか。

 ドアマンのベルントは良くも悪くも単純で、完全に制御できていたのはオーウェンだけだった。

 他に後輩がいないせいかダニエルは可愛がられているが、その分ベルントの破天荒っぷりが手に取るようにわかり、空笑いでその場を後にした。



✧✦✧

 

 バックヤードからクローク内に抜ける階段を登り、扉を開けるとフロントの真横に着く。


 

 フロントにはいつも通りデイジーと、デイジーから飴を受け取るベルントがいた。

 

「あれ、ダニーじゃないですか! どうしたんです?」

 

 いち早くダニエルに気付いたベルントが陽気に声を掛けてきたので、ダニエルは「ウズリフさんのお使いです」とだけ答えた。まさか本人を前にして尻拭いと言う勇気はない。

 

「ウズリフのお使い? お客様に何かあったのかしら」

 

 察しの良いデイジーが顔色を変えたので、慌てて首を横に振る。これ以上何かあってはたまらないのはみんな一緒だ。

 だが、デイジーが気にかけるほどの事態でもない。デイジーはいまやホテル全館を見守る管理者であり、ホテルスタッフ全員共通とはいえデイジーの負担はかなり増えている。

 

「いえ! その……お部屋に戻られたお客様に朝食についてお伺いするように頼まれまして」

 

 慌てたせいでつい直裁的な報告になり、ダニエルはとっさに自分の口を手で塞いだ。

 覚えているかはさておき、当人を前に告白するのは告げ口するような心地だったが、当のベルントはけろりとした顔で「そうなんですか」と答えたのでほうっと息をつく。

 しかし、デイジーはやり取りを見て全てを察したらしい。

 

「ベルント、あなたさっきお客様が部屋に戻られたかどうか確認しに行ってたわよね。そのときに確認しなかったのかしら」

「ん? そのような仕事、そういえばウズリフに頼まれていたような……? わはは、すっかり忘れてました!」

 

 あっさりと白状され、毒気を抜かれてしまう。デイジーは頭が痛むのか、眉間の辺りを揉んでいた。

 

「ごめんなさいね、ダニー」

「いえいえ、全然! それに今の僕にはこんなことしかできませんから」

 

 ダニエルはさらに勢いよく首を横に振る。対してベルントは気にした風も特別申し訳なさそうな様子もなく「いやぁ、ごめんなさい」と人好きのする笑顔を浮かべていた。 

 白々しいまでの笑顔に、この状況でこんな笑顔なんて浮かべられるのかとダニエルは素直に驚く。

 

 意外だな。

 

 思わずベルントを凝視しながら、そう思った。口に出さなかったのは奇跡に近い。

 ダニエルから見ると、ベルントもオーウェンを慕っていた。

 正しく言うなら“懐いて”いた。オーウェンが凄絶な死を迎えた今、ベルントは消沈しきるか怒り狂うかどちらかだと思っていたのに。 それが、いつもと変わらない様子でデイジーに絡んでいるので、ダニエルはさぞや疑わしい眼で見ていたのだろう。

 ダニエルの様子に気付いたのはやはりデイジーで、嘆息混じりに「あなたは平気なの」と呟いた。

 

「え、何がです?」

「支配人のこと、何か思わない?」

「ああ、そんなことですか」

 

 デイジーの言葉に何てことないようにあっけらかんと頷くベルントを見て、ダニエルは自分の口が「え?」の形で固まったことを自覚した。今度ばかりは声にも出ていただろう。

 一方、ベルント本人は顔色一つ変えない。

 


 あっさりと言われる分、感情の底が知れずに恐ろしい。

 主人が死しても変わらない忠誠心は見上げたものだが、うっかり犯人が判明したら嬲り殺されそうだという予想が脳裏に焼き付いて、ダニエルは自分の身体を抱きしめるように腕を回した。

 

「ベルントもダニエルも、不審があれば即時報告、連絡、相談すること。先走った行動でお客様に傷を付けることは、生前支配人も嫌がったことだということを忘れないように」

「はーい! わかってますよ」


 氷のような眼差しでデイジーが釘を刺すが、ベルントは堪えた様子もなく受け取った飴の包みを開いて中身を口に放り込んでいた。長身体躯なのでフロントへ凭れていてもデイジーを見下ろす形になっているが、雰囲気は母親とイタズラをした息子のようだった。

 

「そういえばデイジーさん、ネット回線はどうでしたか?」

「ダメね。どこもかしこも断線してて、電話回線なんかもいつまで保つか。ラインが全て断たれる前に警察や救助隊が到着することを祈るばかりだわ」


 あえて話題をそらしたダニエルに、デイジーは力なく首を振った。

 とはいえ、フロントでできる作業は多い。客室の内線もすべてフロントに集約されているので、無人にはできないのだ。

 

 オーウェン殺害が内部犯による犯行だと仮定して、ホテルの出入口は全て内側から施錠した上に鎖を駆けて鍵をかけている。宿泊客には伝えていないが、その鍵もフロントに預けられていた。

 おまけに、その鍵を収めた金庫の鍵はウズリフが管理している。


 金庫には宿泊客から預かった通信機器などの類も収められているのだ。

 

「支配人のご遺体も、いつまでもあそこに放置するわけにもいかないわ。さっき改めて警察に連絡をしたけれど、とりあえず痛まないようにドライアイスなんかで冷やしつつ、レジャーシートをかけるくらいしかできなくて」


 大階段が使えないとなると、導線にかなりの不便が通じる。何より、惨殺された遺体がいつでも目に入るところにあるのはかなり精神的ダメージがある。

 緑のビニールシートがかけられているとはいえ、遺体の臭気は今にもフロントまで漂ってきそうだ。

 

「真冬というのが不幸中の幸い__幸いなんて言葉は似つかわしくないけど、助かったことには違いないわ。フロントにはヒーターを持ち込んでいるとはいえ、暖房を切ってしまえばドライアイスなんて使わなくとも冷凍庫並の寒さになるし」

「そうですね」


 宿泊客にはエンバーミングを生業とする者もいる。自称とはいえ探偵と、医者の卵もいるのだ。いざとなれば彼らの手も借りざるを得ないかもしれない。

 デイジーは痛ましく眉根を寄せながら、寒々しい大階段下に横たわるオーウェンを見つめていた。


 

「おっ、よかったーまだいた!」


 場の空気を打ち破るように、ダニエルが出てきた扉からアイザックがひょっこりと顔を出した。

 暖炉の火を思わせる明るく柔らかな髪を揺らすアイザックは、場にいるだけでも空気を暖めるようである。三対の瞳が抱いた感想など気付かぬように、アイザックは軽い足取りでダニエルに駆け寄ってきた。

 

「ダニー、悪いんだけどウズリフさんと相談して、まだ間に合うようならついでに軽食を持っていった方が効率的だなって話になってさ。作るのはサンドイッチだし、そんなに手間もかからないからちょっと待っててくれる?」


 ダニエルをまっすぐ見下ろしながら、アイザックが片眼を閉じる。

 オーウェンが殺害された後も変わらず冷静な人物の一人であるアイザックは、普段と変わらぬ視界の広さでスタッフ全体のサポートを担っている。多忙にもかかわらず、伝言役を買って出たのも他に適任がいなかったからだろう。

 前代未聞の不測の事態が発生している以上、効率的に回せるところは回していかなければ保たない。

 普段のウズリフならダニエルに指示を出す前に軽食について思いつきそうだが、事情が察せられるだけに文句などあるわけもなかった。

 

「わかりました。あの、ベネロペさんは大丈夫そうですか……?」


 ウズリフに軽食作りを命じられているからか、アイザックは要件が終わるなり休憩する素振りも見せず、早々にキッチンへ向かおうとしていた。だが、ベネロペの自室まで心配そうに付き添っていた背中を思い出し、ダニエルは思わずアイザックを呼び止めてしまった。 


「あー、どうだろ。アイツ、こんなときに私だけじっと休んでられません! って、今はキッチンでお客様にお出しするお茶の準備してくれてるよ。普段はきゃっきゃしてるけど、意外と仕事熱心なのはダニーも知ってるだろ?」  

 アイザックは少し調子を取り戻したようなベネロペの口調を披露したあと、苦笑気味に口元を歪めた。



 ちょっとしたドジも愛嬌に変えてしまう魅力を持つ彼女だが、そのドジを決してドジのままで終わらせない努力をベネロペは普段から欠かさない。「ミスの経験は誰よりもあるから!」とダニエルを一番フォローしてくれたのもベネロペだ。

 

 誰よりも人を愛することに長けた彼女だからこそ、今の状況は苦しいに違いない。

 自分の感情と仕事を切り分けた上で己の力量を正確に見極め、要領よく動くのがアイザックなら、ベネロペはその正反対と言える。

 

「……朝食の確認と軽食を運び終えたら、ベネロペさんのフォローに回って良いですか?」

「何をそんなに思い詰めた顔で言うのかと思ったら。こっちから頼みたいくらいだって。でも、無理だけはすんなよ? 今はスタッフが倒れるわけにいかないしさ」


 アイザックの大きな手に肩を叩かれた刹那、可憐な声がフロアに響いた。

 

「__おとうさまはどこ?」



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