✧ Side Snow ✧
蛇腹式の扉で賓客を迎えた古式ゆかしいエレベーターが登る。
その間、スノーは会話に困っていた。
自分の身体のくせに口は旧式のエレベーターにかかる錠よりも重たい。
いざ静かなところへ来ると、先ほどの衝撃的な訪問者のことがスノーの脳裏に焼き付いて離れなかった。
彼は無事だったんだろうか。
病院には連絡が付いたんだろうか。
だが、一緒にエレベーターに乗り込んだダニエルが知る由もないので、聞くことも出来ない。エレベーターに乗り込む前のダニエルとの気安い会話さえ遠い過去に思えて、スノーは重力が脳にかかる感覚を甘受していた。まるで、深海から海面に無理矢理引き上げられているような心地がする。脳がやたら重くて、身体に重力を感じなかった。
いつまであがるんだろう。
他者との沈黙の時間は苦手だった。特に二人きりでは変に肩に力が入る。
話しかけるタイミングを失ったスノーの重苦しい気配を感じてか、ダニエルは階を上がる折を見て声を掛けてくれたが、上の空のような返事しか返せなかった。
想像以上に由緒正しきホテルに畏怖していると思われれば良い。
そんな逃げ口上さえ脳裏に浮かべながらスノーが到着した宿泊階は、客の靴音が響くほど閑散としていた。客とは無論、スノーの履いている革靴である。
「......あんまり人がいないんだね」
「ええ、本日を含めた一週間はクリスマスホリデー期間中の特別な催しですので! 当ホテルの招待状を受け取ったお客様以外の滞在はお断りしております。なので、平素に比べれば静かな館内がお楽しみいただけます」
如才なくダニエルが応えたことに感心しつつ、スノーは案内されるまでもなくエレベーターを右手に曲がった。館内の見取り図と自分の部屋の場所は、招待状が届いてから参考書よりも眺めて意識していた。誤っている可能性すら脳裏を掠めなかった。
「スノー様ぁ! お待ちください!」
「え、なに?」
ダニエルの控えめな声を聞いて、スノーはようやく足を止めたほどだ。
エレベーターから自室までの距離は、自身の通う学園のプールを往復するより短い距離である。しかし、道中をアジアの世界遺産たる長城よりも長いと感じていたのは、スノーだけではなかったらしいと痛感した。
「スノー様は......」
ダニエルは鉛をくくりつけたような足取りで、スノーよりも二歩ほど後ろをのろのろと追従していた。
「当館にいらしたことがあるのでしょうか......? いえ! あまりにも迷いなく歩まれるので......」
「あ、ううん! 覚えてはないんだけど......招待状をもらってからこのホテルを紹介したサイトや記事を読み 込んでいたせいかな。まるで夢みたいで......」
思い詰めたような、驚いたようなダニエルの表情を見て、スノーは咄嗟に口走った。
同じ年頃のダニエルに入学したての新入生のような反応をされると、紳士たれという校則が脳裏によぎる。
紳士とは、他者を敬い、他者を尊び、騎士道を守る者のことである。スノーは背筋を伸ばし、悠然と微笑んだ。
ここではスノーがダニエルに“命じる者”であり、ダニエルは“従う者”である。蔑むことなく、嘲ることもなく、それぞれの“役割”に従じなければならない。それがマナーだ。上級生のように胸を張ると、少しだけ余裕を取り戻せた気がした。
「ただ、初めて来る場所で戸惑ってもいる。ここからは君に先導を任せてもいい?」
「はい、もちろん!」
スノーが慇懃に案内を頼むと、ダニエルは「こちらがスノー様のお部屋でございます」と恭しく一室の扉を開いた。
扉には「203G」と金色のプレートが掲げられており、自分一人に与えられた空間に、スノーは息を呑んだ。
チェストまで飴色に輝く部屋は、王侯貴族が寝起きすると言っても遜色ない。
「わぁ......すごく、素敵な部屋だね」
「ありがとうございます!」
クラシカルなベッドルームには、クイーンサイズかキングサイズと思しき大きな天蓋付きのベッドが鎮座している。窓辺に生けられた花は楚々としつつ、美しく咲き誇るフラミンゴのような鮮やかな発色の薔薇だ。外の雪が発光して見えるような大きな窓には、臙脂色のカーテンが掛かっている。
足音どころか吐息まで吸収しそうな絨毯を雲を踏む心地で歩みながら、スノーは所在なさげに胸元で手を握った。
一介の学生には、あまりにも場違いのように感じてしまう。
「あの......」
「お荷物はこちらに置かせていただきます!」
スノーの心細さが音になった声と、ダニエルの声がタイミング悪く重なった。
ダニエルは客商売の性か聞き逃さず「はい、何か?」と首を傾げる。
用と言うほどでもない。ただ、上品すぎる部屋に居心地が悪いだなんて。
だが、聞き届けられた声にスノーは目を見開いた。眼球が乾いていたのか、僅かにピリッとした冷気が目を刺す。
刹那、コンコンコン、三回控えめにノックが鳴った。
言い淀んだ声を喉の奥に呑み込み、スノーが咄嗟に入室許可を出すと、先ほどフロントで見た男が「失礼します」と扉を開く。
ボルドーがかった赤毛に深いルビーのような瞳の、執事服に身を包んだ柔和そうな男だ。たしか、ウズリフと呼ばれていた。
ウズリフは恭しく右手を胸に当て、スノーに頭を下げた。
「こちらのフロアを担当させていただいております、バトラーのウズリフと申します。先ほどはお騒がせしてしまい、誠に申し訳ございません」
大人の男性から受ける慇懃無礼な応対に慣れていないスノーは、しどろもどろしながら「あの、さっきの人 は......」となんとか口にした。ウズリフの顔を見たら、フロントでの騒ぎが耳の内にまで蘇ってきた心地がする。あの場にいても、スノーにできたことは何もない。だが、見かけた以上なかったことにもできず、野次馬根性にも似た気持ちで伺ったが、ウズリフは隙のない笑顔を浮かべた。
「お心配り、恐れ入ります。お客様が気にされることは仔細ありません。体温が下がり、憔悴されていたよ うですが、無事に目を覚まされましたよ」
「そうですか......よかった!」
偽善じみた感情が顔を出す間もなく、心に浮かんだ言葉がそのまま口から零れた。窓の外の悪天候とは裏腹の晴れ渡った気持ちに、エレベーター内で口を重くさせていた枷はやはりこれだったのかと思い知らされ、スノーは胸を撫で下ろす。気にかかったままではきっと、晩餐も喉につっかえただろうと容易に想像できた。
とたんにお腹がくう、と小さな音を立てる。
自分の耳に空腹の虫の鳴き声が聞こえるなり頬を赤らめたスノーに、ウズリフは柔らかい笑顔を浮かべたままだった。
「本日のディナーでございますが、クリスマスと当ホテルのセレモニーをあわせまして、大広間にてささや かながらコース形式でのパーティーを催させていただきます。招待状にも記載させていただいていますよう に、必ずご参加くださいませ」
「は、はい! あの、僕も参加できるんでしょうか......」
招待状を受け取ったとはいえ、スノーはまだスクールに通う学生だ。食事作法は一通り修めているつもりだが、格式高いホテルのコースマナーに対応できる自信はない。恥を忍んで白状しても、ウズリフは「勿論でございます」と笑顔を崩さなかった。
「此度のパーティーは格式張ったものではなく、当ホテルからお客様へ僅かばかりの御礼を兼ねたカジュアルな催しでございます。お召し物にもドレスコードはございませんので、どうぞお気軽においでください」
ドレスコードがないとなれば、確かに“カジュアル”な食事会なのだろう。問題ないと言われて、スノーはエ レベーター内以上に強ばっていた肩の力を知らずに抜いていた。だが、緊張感は抜けない。
「パーティーは十八時より開始予定でございます。迷われた際はお近くのスタッフまでお声掛けください。ホワイト様のお越しを心よりお待ちしております」
最後に「何か、ご不明点やご要望はございますか?」と尋ねられ、スノーは首を横にふるふる振った。紳士らしからぬ子供じみた所作だが、もはや体裁を保てる精神力は使い果たしている。
「では、ご入り用の際はこちらの内線か、フロントまでご連絡ください。内線一覧はこちらに置いておりますので。もし、ご連絡先に迷われた際はフロントへお繋ぎいただけましたら、ご案内いたします」
最後まで洗練された身のこなしでウズリフが退室するなり、スノーは肺の空気を全て吐ききってしまった。
ぐったりとしたスノーの様子を見て、ダニエルが薄く笑う。
「あはは、わかります。ウズリフさん相手ってちょっと緊張しますよね」
「うん......お店の人はともかく、大人の男の人にあんなに丁寧に接してもらったことなんて人生初だよ」
相好を崩したダニエルの軽口に、スノーは今度こそ気軽に乗れた。 ダニエルの明るい声音が、今は心地よくて安らいだ。
十六時にチェックインしたので、荷解きを済ませても晩餐会もといパーティーにはまだ時間が空いている。先ほどウズリフに聞けなかったパーティーについて尋ねると、ダニエルは気を悪くした風もなくにこやかに説明をしてくれた。
「ウズリフさんの言うとおり、コース料理といってもホームパーティーの延長線上みたいな感じですよ。うちのホテル、たまに開くみたいです。開始時間に一階の大広間まで来ていただき、受付のスタッフに晩餐会 の招待券とお名前を提示してもらえば、お席までご案内しますので......あっ」
ぱっと目と口を同時に大きく開いたダニエルの顔には、あっというまに大きな丸が三つ広がる。 小動物のようなまん丸の瞳を見開いた後、ダニエルはスノーにおずおずと近寄り「あの、申し訳ございませ ん......」と謝罪しつつ、懐から小さな白い封筒を差し出した。
「こちら渡しそびれていた本日分を含めたお食事券です。お食事の際には必ずこちらを忘れずに会場へお持ちください」
簡素な造りのそれはシルクのような手触りで、ホテルの名に恥じない良質な紙が使われているのだろう。
「わかった、ありがとう。そういえば、食事に行く間は貴重品ってどうすればいいの?」
「フロントに預けていただくか、会場までお持ちいただいても問題ございません! もしくは、お部屋に設置してある金庫に保管していただくことも可能ですよ」
示されたベッドのサイドチェストの一番下に設置された金庫は確かに重厚そうで、ちょっとやそっとじゃ破れなさそうだ。暗証番号の設定方法などが書かれた紙を手渡され、スノーはこくりと頷いた。
「ありがとう。引き留めてごめんね」
「いえいえ、何かございましたらお気軽にお声掛けください! では、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
ダニエルが部屋を出て行くと、しんとした室内に耳が痛くなる思いがした。
しかし、胸は耳以上に痛く、激しく高鳴っている。
ついに、ホテル・カサブランカに来たんだ。
ずっと夢見ていた。招待状が届いたときは夢かと疑ったほどだ。このチャンスを、逃すわけにはいかない。
スノーは小さく拳を握って気合いを入れると、早速荷物の荷解きにかかった。荷解きといっても、着てきた外套と帽子を掛けて、貴重品の類いを金庫にしまえば他に鞄から出す物はそうありはしない。
窓の外は吹雪が重たい雪に変わり、外界の音を全て吸収しているようだった。
“ホテル・カサブランカ”の美しい庭は雪化粧に覆われ、厚い雪雲の昏さと遠くの夕焼けを孕んだ複雑な色合 いになっている。この世ならざる幻想的な光景が、スノーの眼下には広がっていた。
「この景色を、二人は見たんだね......」
窓に触れると、手袋越しでも雪の冷気が伝ってくる。素手で触ればきっと火傷したときのような刺激に襲われるのだろう。
スノーは庭の景色を目に焼き付けた後、少し悩んでから帽子だけを取って部屋を後にした。
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ダニエルから聞いたとおり定刻に大広間へ降りていくと、扉の前ではバトラーであるウズリフが待ち構えていた。
バトラーってなんでもやるのかな。
客室の対応から受付まで涼しい顔でこなすウズリフは、スノーに気づくと、優雅な礼でもって出迎えてくれる。
「ようこそ、ホワイト様。お待ちしておりました」
「少し早くついてしまったのですけれど会場に入れますか?」
待ちきれなくて開場する十分前に辿り着いてしまったのだ。定刻の範囲だろうが、思わず尋ねたスノーにウズリフは鉄壁の笑顔でもって首肯する。
「もちろんでございます。すでに席へ着かれているお客様もいらっしゃいますので、しばらくはご歓談をお楽しみください」
先客がいると聞き、スノーの胸には紙に水滴が落ちたような心強さと緊張が広がった。しかし、顔色を変えずに晩餐会の招待券を差し出すと、ウズリフは穏やかな微笑を口元にたたえたまま受け取った。
「何かお預かりするものはございますか?」
「いえ、特にありません」
「かしこまりました。では、スタッフがお席にご案内いたします」
ウズリフが浅く顎を引くと、給仕を担当すると思しき女性が如才なくスノーの前に駆けつけてくる。黒のドレスにエプロンを着けた姿から察するに、ウェイトレスだろう。ミルクティー色の髪を揺らして、
女性は“にっこり”と音がしそうな快活な笑みをスノーへ向けた。
「本日、ホワイト様の給仕を担当させていただきますベネロペ・ラヴテイカーと申します! 早速、お席に ご案内いたしますね」
「ミス・ラヴテイカー、こちらこそよろしくお願いします」
跳ねるように楽しげな足取りのベネロペについていくと、スノーは壁際のちょうど中央にあたる席に案内された。
受付近くの同じ列にはすでに宿泊客が座っており、後ろに控えている執事のような男性と楽しそうに談笑している。
スノーと同じ宿泊客と思しき年若そうな女性は繊細な刺繍が施されたドレスを纏っていて、長い髪を上品なレースのリボンで結わいていた。女性に話しかけられている執事風の男性は顔全面を覆う白い仮面こそ人目を引くが、服装自体はベストに黒のタートルネックをあわせたシンプルなもので、ジャケットは羽織っていない。
ベネロペが椅子を引いたのに合わせてスノーが腰をかけると、スノーが目端で観察してしまった女性と目が合った気がした。
「乾杯の際にはシャンパンをご用意しております! スノー様はノンアルコールのシャンパンをお持ちしてもよろしいでしょうか?」
「はい、ありがとうございます」
スノーが大人しく頷くと流れるようにドリンクメニューを渡されたので、シャンパンの後はフレッシュジュースを頼むことにした。食後はもちろん紅茶である。
程なくして座席は埋まり始め、事前に確認したとおり各々服装は形式張った燕尾服からラフな T シャツまでバリエーション豊かに揃い始めたので、スノーはようやくこっそりと胸を撫で下ろした。
✧✦✧
ネームプレートが置かれた席に全員が着席した光景は壮観だった。
上座に座るオーナーのオーウェンまで含めると、総勢十二名もの人間が同じ一族のように一つの長テーブルで向かい合っている。老若男女を隔てず人種さえ越えて一堂に会する晩餐で、乾杯の音頭を取ったのは、主催者であるオーウェンだ。
「皆様、ホテル・カサブランカにようこそおいでくださいました。当ホテルの支配人を任されております、オーウェンと申します。嬉しくも、本日はかねてより御利用くださるお客様から、初めてお会いするお客様まで幅広い方々にお集まりいただくことが叶いました。改めて、厚く御礼申し上げます」
オーウェンの朗々たる声が響くと、さざめくようだった会場内が静まりかえった。オーウェンは完全に場を支配していて、客達の視線がオーウェンに向かって刺さる。注目されることに慣れているのか、オーウェンは緊張した風もなく再び口を開いた。
「皆様にご愛顧いただき、祖父の代から受け継いでまいりました当ホテルも無事に百周年を迎えることができました。本日はささやかながら、当ホテルよりお集まりいただきましたお客様へ、クリスマスプレゼントとして晩餐と交流の場をお贈りいたします。この場をお借りして本日の食事兼スタッフを紹介させていただきます」
オーウェンの口上を合図に、上座に三人のホテルスタッフが並んだ。並んだ内の二人は、すでにスノーも見知っている人物である。バトラーのウズリフと、ウェイトレスのベネロペだ。残った一人はベネロペと同じ給仕担当のようで、さながらアイドルのように華のある快活な青年だった。
「ご紹介にあずかりました、アイザックと申します。本日は皆様の配膳をお任せいただくことになりました。苦手なメニューや何かご入り用の際は、お気軽にお声掛けくださいね!」
アイザックが愛想を振りまき終えると、スタッフの面々は颯爽とそれぞれの配置につく。オーウェンは再び、上座で招待客達を悠然と見回した。
「七日間の滞在の際、何かとお話しされる機会もあるかと存じますので、よろしければ乾杯前に皆様より自己紹介を賜りたいと思います」
劇の台詞でも読み上げるように淀みなく自己紹介へ繋げると、オーウェンはそのまま自分の右手側に座る老紳士に「では、モルゲンシュテルン様からお願いできますか」と水を向けた。すると、すかさずスノーの目の前から異論を唱える声が上がる。
「オイオイオイ、クリスマスのご馳走を前に“待て”を覚えさせなくとも、人の分にまで手を付けないさ」
「いいじゃないか、こういう機会でもないとお互いに知り合う機会もない。“僕”のような老骨と、君のよう な若き“クリエイター”もね?」
抗議の声に応えたのは、オーウェンに指名された老紳士だった。
褐色の肌に精緻な刺青を入れた派手な若い男と上品なスーツに身を包んだ白人の老紳士は、両者口元に笑みを湛えている割に、一色触発の空気を醸し出す。スノーには二人の視線の行き交った卓上に、鋭い稲妻が走ったように見えた。
永遠とも刹那ともつかない沈黙を先に破ったのは、若い男の方である。
「__ハッ、そりゃいい。確かに、ジェントルマンにビジネスチャンスをもらえるってンなら、文句は付けらんないね」
「ご理解いただいて何よりだよ。うちのホテルにも是非近々、君の絵を飾りたいと思っていたからね」
「だったら、絵の依頼はいつでも歓迎してるぜ。おっと、仕事の話よりもまずは腹拵えだ。水を差してソーリー、続けてどーぞ」
痛烈すぎるやり取りを終えた男に促されるも、老紳士は狼狽えた様子もなく「場を温めてくれてありがとう、コフィン」と皮肉とも本心ともつかない言葉を吐いた。
お互いに顔見知りだったのか「コフィン」と呼ばれた青年は、人を食ったような顔で「どーいたしまして♪」と返している。
自分よりいくつか年上だろうその「コフィン」青年に目を奪われていたスノーは、老紳士を射貫いていた曇り空と同じ色が向けられるなり、呼吸が止まる思いがした。だが、お互いに何かを言う前に老紳士のチェロの音のような声が響く。
「まずは招待をどうもありがとう、オーウェン。創立五十周年から通っているが、こうして再び節目の年を共に祝えることを心から喜ばしく思うよ」
オーウェンに向けられていた老紳士の銀灰の瞳が、テーブルに座した一人一人に向けられる。演説に慣れた者特有の噛んで含めるような、よく通る声が「僕はスヴェン・モルゲンシュテルン。行き交ったら気軽にスヴェンと呼んでほしい」と茶目っ気混じりに名乗った。
「もしかしたら知っている人もいるかもしれないが......普段はホテル・モルゲンシュテルンの会長を務めている。ホテル・カサブランカとは商売敵になるわけだが、プライベートと仕事は分けるタイプでね。どうにも通ってしまうんだ。ここのホテルは何もかもが一流で、皆さんに贈られたこの七日間は夢のような日々にな ると僕が保障しよう__と、こんなものでいいかな?」
「はい、モルゲンシュテルン様。ありがとうございました」
「君に“モルゲンシュテルン様”と呼ばれるとくすぐったくて仕方がないな」
常連らしくオーウェンに軽口を叩きながらスヴェンが着席すると「次にシャンドリー様、お願いできますか」と、次の指名がされた。
立ち上がったのはスヴェンの隣に案内されていた、菫色の髪が美しい婦人である。
どうやら、オーウェンから向かって右の列から順番に紹介していく流れらしい。補助付きで立ち上がった「シャンドリー」氏の瞼は、なおも閉じられたままだ。
「このような機会をいただけて光栄ですわ、オーウェン様。私 (わたくし)、ナジー・シャンドリーと申します。この通り、目が見えないことでご迷惑をおかけするかもしれませんので、皆様に一言ご挨拶ができて安心しております」
どうぞよろしく、とスヴェンに比べれば幾分か簡素だが、優雅な一礼をしてナジーが腰を下ろす。ナジーの横には目が見えないという彼女のためか、ウズリフが介助役として控えていた。カラトリーの並びから察するに、コース料理が出てくるのだろう。ウズリフはナジーが引っかけてしまわないように、シャンパングラスの位置を注意深く調整していた。
ナジーの次はいよいよ、自己紹介に噛みついた青年の番である。誰よりもラフな格好をした彼は、なんと半袖半ズボン姿だ。目元には色付きの眼鏡をかけていて、しどけなく立ち上がる。自己紹介前から礼儀作法をかなぐり捨てたような出で立ちだが、その立ち居振る舞いからは匂い立つような色気があった。
「じゃあ、次は俺だナ。といっても、コフィン・ドジャーなんていう掃いて捨てるようなクリエイターだ。モデルはもっぱら人。特に美人やかわい子ちゃんは大歓迎♪ 普段からこのホテルにはよく来てるけど、今回は題材にぴったりな美男美女が勢揃いで涙が出そうだ。涎を垂らしちゃう前に、ご馳走が出てくることを祈るばかりだぜ」
先ほどのスヴェンとの息を呑むやり取りを露ほども感じさせず、コフィンはにんまりとチェシャ猫のような笑みで客を見回した。値踏みするようなコフィンの目線がふと自分の列のどこかで止まったが、スノーが特定する前にコフィンはさっさと座ってしまう。すると、待ちかねたようにコフィンの横に座っていた男がすっくと立ち上がった。
「紳士淑女の皆様、初めまして。私はしがない理髪師のコーデル・マッカランと申します。髪を整えることを生きがいとしており、宿泊中ももしご入り用でしたらいつでもお気軽にお声掛けください」
勢い込むようにニコニコと自らを売り込んだ男は、聞いてもいないのに「仕事道具は常に持ち歩いておりますので」と身につけたままらしい仕事道具を掲げて見せた。その後も自分の客となりそうな女性達や髪の長い隣の客に軽く声を掛けてから、コーデルはようやく着席した。商売上手とも押し売りまがいとも言える勢いに、スノーを含め、他の客は苦笑いしきりである。
次の順番はそのコーデルに声を掛けられていた男で、自分の番と悟るなりおずおずと立ち上がった。
理髪師のコーデルが目を付けるのも頷けるほど長い髪の男は、立ち上がるときに鈍くさく足をぶつけて、テーブルを揺らす。目線は虫でも追っているかのようにテーブルクロスの上を彷徨っていて、陽気なコーデルの次に挨拶させるのは哀れなほどだった。
「じぇ、ジェシカ・ネクロです......ええっと、その......職業は、エンバーマーをして、ます。髪が長いのは、 仕事に関係なくて、その......切るつもりもありません。よ、よろしくお願いします」
小声な上に早口で紹介を済ませると、ジェシカは所在なさげにちょこんと椅子に座り直した。挨拶が終わってもなお緊張が続いているのか、黒い手袋で包まれた指先を擦りあわせている。
ジェシカの横に座っていた男が異質な飛び入り参加ということもあり、招待客達の目線が悪気なく集中していたせいもあるだろう。大広間中の瞳に見詰められる形となった男は、緩慢に立ち上がった。
「俺は、招待客じゃないんだが......」
溜息交じりで仕方なさそうに立ち上がったのは、ホテルの前で行き倒れ、スノーの目の前で運ばれていった青年その人である。
オーウェンに伴われて青年が大広間に入ってきたとき、スノーは思い切り目を見開いてしまった。
ドアマンに抱えられているときに着ていたモッズコートを脱いだだけ、という風体の男は、当然どの客よりもくたびれた格好をしている。招待客達の中でも明らかに異質な青年をテーブルの隅に座らせた後、オーウェンはスノーの横に立ち寄ってくれていた。
小声で「回復されたようですので、お招きしたのです。後ほどご本人から紹介があるかと」と囁かれた後、密かに今か今かと待ちわびていたが、まさか全員が自己紹介をする流れでくるとは思っていなかった。
スノーが目端で観察する限り、青年は自分の番が来るまで何かを考える素振りをしながら、誰よりも真剣にそれぞれの自己紹介を聞いていた。しかし、彼の自己紹介を聞くとそれも道理である。
「俺は......ヴェルナー・ハイゼンベルク、ヴェルでいい。このホテルの前で倒れていたらしいんだが、名前以外に記憶がないので、ご期待に添えるような話は何もできそうにない」
以上、と言い終えようとしたヴェルナーを呼び止めたのは、ヴェルナーの正面に座っていた青年である。プレゼントを前にした子供のように目を輝かせ、青年は身を乗り出してヴェルナーの話に食いついた。
「行き倒れの記憶喪失! それは本当ですか!? 現実でまさかこんなすごいシチュエーションに行き交うだなんて信じられない! __おっと失礼、僕は探偵でして。事件の香りとあらば黙っていられないんです。しかし、これを事件と呼ばずして何と呼ぶ! ミスター・ハイゼンベルク、あなたはとりわけミスター・モルゲンシュテルンの話を熱心に聞いていたようですが、お心当たりでもあったんですか?」
「いいや、残念ながらないと思うよ」
探偵だという男の質問にヴェルナーよりも先んじて答えたのは、席の離れたスヴェンである。
スヴェンが首を振る一方、ヴェルナーの虚ろな瞳が「事件......?」」とわずかに光ったが、すぐにスヴェン同様、ヴェルナーも首を横に振った。
「今のところ、名前以外に思い出せたことは何もない」
「そうですか、それは残念ですね。でも、運が良かった。滞在中は僕が記憶を取り戻すお手伝いをしましょう」
申し遅れました、と紳士の礼をした男は、エルロックと名乗った。ロンドンで私立探偵をしており、姓は「ホームズ」、イギリス一有名なあの探偵の子孫だという。
「あの、シャーロック・ホームズはフィクションでは......?」
エルロックの隣に座っていた赤毛の男が果敢にも突っ込むが、質問は快活な笑い声に吹き飛ばされてしまった。
「僕の家では伝記として伝わっていますよ。これから僕の名が知れ渡れば、あれは創作物ではなくノンフィクションだということも伝わっていくでしょう。皆様ももし事件でお困りの際は、このエルロック・ホームズにご相談ください」
商売上手はコーデルだけでなかったらしく、エルロックは爽やかな笑顔かつ声高に自らを宣伝すると、ようやく席についた。しかし、目の前のヴェルナーを標的と定めていることは明白である。うずうずとした様子のエルロックが再び話し始めないうちにとでも思ったのか、先ほどの赤毛の男が素早く立ち上がった。
自己紹介の流れはようやく折り返し地点に来たところだったので、気遣いだとしたら完璧である。だが、特に空気を読んだつもりもなかったらしい当の本人は高身長を所在なさげに揺らして口ごもってしまう。緊張した面持ちは、賑やかなエルロックよりも多少若く、気弱そうに見えた。
「えっと、その......ギャスパル・ミュレーといいます。職業は、小児科医を目指している学生です。ホテル・ カサブランカは好きな本の舞台に似ていてずっと憧れていたので、今回お招きいただけてとても嬉しいです」
えへへ、と気恥ずかしそうにかけた眼鏡を押し上げながら笑ったギャスパルは、いざ話始めると前座の色濃さを和らげるような穏やかさを纏っていた。
読書好きでなければ、エルロックの紹介も「そうなんだ」と聞いてしまいそうな雰囲気もあり、確かに小児科医にぴったりだとスノーはこっそり頷く。
「あなたとミスター・シャーロックの並びを見ているとどことなく「赤毛連盟」を彷彿とさせるわね」
言いつつ、ギャスパルの次に立ち上がったのはスノーの隣に座っていた気の強そうな女性である。
いよいよ順番が迫ってきて、スノーは固唾を呑みながらジャーナリストだという女性の自己紹介を聞いた。
「クレア・ウィンストンよ。フリーのジャーナリストで、ここへは取材半分、旅行半分ってところかしら。機会があれば皆さんにもぜひ取材したいから、そのときは邪険にしないでくれると嬉しいわ」
はきはきとクレアが話し終えてしまうと、スノーは行儀良く椅子を引いて立ち上がった。 自己紹介を聞いていくうちに自分が最年少であることを思い知らされたが、そつなく「スノー・ D ・ホワ イトです」と切り出すことに成功した。
「ミスター・ギャスパルと同じく、学生です。幼い頃、両親がホテル・カサブランカの話をしてくれたときから、このホテルにとても憧れていました。どうぞよろしくお願いします」
優等生然として振る舞うことは得意なので、普段通りを心がけたつもりである。ただし、声音がなるべく静かに聞こえるように一音一音に注意した。ただでさえ同世代の中でも幼く見えがちなので、大人が多い空間で悪目立ちすることは避けたかった。
自分の次が近い年代と思しき少女という席順に、心の底から感謝したほどである。 スノーが着席すると、執事に椅子を引かれた少女は観念したようにドレスの裾を気にしながら立ち上がっ た。
「あ、あの......わたしはエレノア......エレノア・ポートマンです。えっとその......」
エレノアは可哀想なほど真っ赤に頬を染めながら、胸元に垂れたレースのリボンを指先で触った。
言葉が続かない主人を導くように、控えていた執事風の男が「お嬢様、落ち着いて」と優しく声を掛ける。恐ろしげにも見える仮面に反して、慈愛に満ちた低い声は、主人を勇気づけるのに一役買ったらしい。
「こ、こちらは! わたしの従者の、スキアーです......よろしくお願い......」
最後の「ます」を吐息のような声で漏らすと、エレノアは精根尽き果てたかのように座り込んだ。紹介をされたスキアーのほうは余裕のある仕草で一礼をし、出しゃばることなく主のサポートへと回る。
それぞれのグラスには、乾杯用のシャンパンが注がれた後だ。
「突然のお願いにもかかわらず、皆様誠にありがとうございました。ここからはご自由に歓談をお楽しみいただき、当ホテル自慢の料理をお召し上がりください」
オーウェンの一言にあわせ、満を持したように十二個のグラスが掲げられる。
ようやく運ばれてきた前菜は、赤身が鮮やかな鮭のムニエルだ。入場時に案内してくれたベネロペが「上にかかっているのは食用の金箔ですので、そのまま外側のナイフとフォークにてお召し上がりください」と補足してくれた。
パセリのグリーンと鮭の身の赤を飾る黄金は、目にも鮮やかだ。 慎重に一口分を切り分けて口に運ぶと、レモンソースのさっぱりとした風味と魚の脂が舌の上に広がる。 見て楽しい、食べて美味しい料理だ。
空腹と、突如始まった自己紹介の緊張から解放されたのはスノーだけではなかったらしく、宿泊客達はおおむね和やかな雰囲気で前菜を楽しんでいるようだった。
スヴェンは先ほどの他人行儀をからかいつつ、オーウェン相手に「ステファノが亡くなって、もう何年だい?」という年配じみた会話に花を咲かせていた。
会話を楽しんでいるのが顔見知り同士だけかと思いきや、エルロックがしきりにヴェルナーへ話しかける声も聞こえてくる。乾杯を終えてシャンパングラスが下げられると、如実に酒が回り始めたのか、大広間は料理と話し声であふれかえるようになった。
スノーの前ではコフィンが着々と白ワインの杯数を重ねており、誰よりも早く相好を崩したコフィンは鼻歌交じりに対岸の面々へと声を掛けてきた。
「さっきからなァに見てんの? えっちな坊やだな♪」
「え、えっちだなんてそんな......!」
「ハハッ、可愛い子が目の前にズラリと並んでいて、どれがご馳走だか迷っちゃうね~」
星形の飾り切りが施されたニンジン入りのクラムチャウダーを食べ終えた頃には、コフィンはテーブルに頬をぺったりとつけていた。
酔っているのかと思えばそういうわけでもないらしく、機嫌良くメインディッシュのチキンを、行儀悪く鷲掴みしたフォークで突き刺している。
対照的に、オーウェンとスヴェンはナジーの美しいテーブルマナーを称賛し、今度はピアノ談義で盛り上がっているようだ。
テーブルという大きな川を無視しているのは、今ではコフィンと残ったチキンくらいなものである。
それぞれの皿の主役となっているチキンは向かい側の列の給仕を担当する、アイザックという青年が、大きなローストチキンを切り分けてくれたものだ。
茶髪のくせ毛を揺らし、人懐っこそうな笑みを浮かべたアイザックは、パフォーマンスとしてか大きなナイフで手際よく扱っていた。ベネロペと息の合ったコンビネーションは曲芸じみていて、宿泊客の目を楽しませてくれる。
テーブルリバー越えの先駆者だったエルロックだけが、鮮やかに分けられていくチキンを見て「ビーフじゃないのか」と不満げだった。
「クリスマスにはやはりチキンがないと」
「いやいや、やはり肉はビーフに限るよ。なんといっても脳内に分泌されるセロトニンとアマンダナイトの量が違う」
「でも、クリスマスの描写に合うのはビーフよりチキンですよ。ビーフじゃ、ただの食事風景と変わりないですから」
かくしてテーブルの端で火蓋が切って落とされたロマンチストな医者の卵とリアリストな自称探偵の戦いにも、ヴェルナーは無関心を貫いていた。かと思えば「どっちでも美味いと思うが」とぼそっと呟いたりするので、案外目が離せない。
そもそも、ホテル・カサブランカの用意したチキンはビーフにも見劣りしないほど大きく、上等なものだ。パリパリの香ばしい皮に絡んでいるのは、グレイビーソースではなく、クランベリーの甘酸っぱいソースで口当たりも良い。チキン自体に塩や香草の味が丁寧に馴染まされていて、ベリーソースの酸味が肉の味を引き立てる紛うことなき逸品である。
周囲を観察しつつ、いかにもクリスマスを意識したコースメニューにギャスパル同様感動しつつ、しっかりと舌鼓を打っていたスノーは、コフィンの軽口も徐々に笑顔で流せるようになっていった。
「たまには人の言うことも聞くもんだね♪ 俺の前に並んでるのは、自由席じゃビビられてお近づきになれなさそうな子ばっかだし」
「そのわりにはミスター・ドジャーはお酒ばかり進んでいるようですが、どこかお加減でも?」
「そりゃあ、おつまみには困らないからねン♪ 燃費は良い方なんだ。マナーだなんだかんだと煩い奴もいないみたいだし、絶好調だよ。今すぐデッサン取りたいくらいだ」
皿の上でぐじゃぐじゃとソースを肉でかき混ぜたコフィンは、それを大口でもって迎え入れる。フォークを顔より高く掲げ、垂れてくる肉汁とソースを舌先で受け止める様は、幼児よりも行儀が悪いが、見ている人間に生唾を飲ませる魅力もあった。
隣に座るコーデルだけはコフィンのテーブルマナーへ静かに眦を怒らせていたが、上質な料理を堪能するほうが忙しいのか、時々身悶えては逆隣のジェシカにばかり話しかけている。
「はぁ......肉の扱いが最高ですね。皮だけが美味しいローストチキンなんてナンセンス、しっとりとした肉を楽しませてくれるだなんて最高だ。ああ、そうだ! 散髪以外だと、トリートメントも得意なんですよ。頭皮マッサージで柔らかく解きほぐされれば、気分爽快間違いなし! こうしてお近づきになれましたので、 よろしければサービスしますよ」
「け、けけけけっこうですぅ......」
半泣きになりながらも、肉を食べ続けることをやめないジェシカも大したものだが、コーデルの逆隣がヴェルナーとなれば援軍は望めなさそうである。
「それにしても、随分と個性的な人物が集まったものねぇ」
ワイングラスを回しながら、ひとり言のようにクレアが呟く。自己紹介を聞いているときにはどうなることかと思われた晩餐は、いまや賑々しくも楽しげな喧噪に包まれている。
「そうですね。こうしているとクリスマスパーティーみたいで楽しいです」
スノーが素直に相づちを打つと、クレアが微笑ましそうに目元を細めた。
「あら、少年はクリスマスパーティーがお好き?」
「嫌いな人、いないんじゃありません?」
クリスマスには夢が詰まっている。夢の日々のスタートにはもってこいだとスノーが告げると、クレアは細めていた目を丸くして瞬かせた。
「いいわね、それいただくわ」
「え、どれをです?」
フォークとナイフを置いたクレアがメモを取り始めた頃合いで、コースはラストへとさしかかった。
テーブルの中央に置かれた大きなクリスマスケーキに、アイザックが慎重にケーキナイフを入れていく。その間に、各々の前には星形の生地が乗った愛らしいミンスパイが配膳された。
「わぁ、かわいい......!」
それまで従者のスキアーにしか聞こえない声量でしか話さなかったエレノアからも、思わずといった風の歓声が上がる。スキアーはといえば、ベネロペに主人が飲む紅茶について指示をしているようだった。
「お好きなんですか? ケーキ」
「え、はっはい! お菓子ならなんでも......でも、男の子はあんまりお好きじゃないですよね......?」
スノーが声を掛けると、エレノアは子兎のように肩を跳ねさせた。だんまりになられることも覚悟していたが、意外にも質問が返ってきて、スノーは顔をほころばせた。
「そんなことないですよ。僕、特にミンスパイは好物なんです」
「まあ、そうなんですか? わたしもだいすき」
ふふふ、と口元を抑えて笑うエレノアは、恐らくスノーより年上だが、なんとなく庇護欲をそそる。
二人でケーキについてあれこれ話が広がり始めると、その隙にコフィンがスキアーに話しかけていた。
「ねえ、おにーいさん♪ なんで仮面なんてつけてんの? 無礼講っていわれてるんだし、一緒に飲もうよ」
「恐れ入ります。なにぶん、酷い傷跡を隠すものですから、どうかお気遣いなく」
「スカーフェイスってワケ!? 何ソレ、最高にクールでエロいじゃん♪ そりゃ隠さなきゃ、メス豚どもの餌食だねぇ」
テーブルを隔てて交わされる会話に色香と酒の香りが混ざり、スノーと会話しながらも耳をそばだてていたらしいエレノアが涙目になる。すると、良いタイミングでオーウェンが立ち上がった。
「おっと、もうこんな時間ですか。お名残惜しいですが、私はお先に失礼いたします。このあとも食後の紅茶とご歓談をお楽しみください」
「おや、仕事かい?」
「ええ、まあ」
スヴェンの問いに頷いたオーウェンは、軽く退室の挨拶だけして大広間から抜け出していった。食後の紅茶が出る頃となれば、クリスマスパーティーを模した晩餐会が始まって二時間近く経つのだろう。
オーウェンが立ち去った後は、スヴェンやナジーから積極的に話しかけられ、結局スノーが大広間から退室したのは二十時半を回る頃である。延長した会でも嫌な顔一つ見せずに給仕をこなしたベネロペとアイザックに見送られ、翌日の朝食の案内を受けて部屋に戻ると、スノーの全身は鉛のように重たくなっていた。
こんなに楽しいクリスマスは初めてだ。
お腹も心も満たされると、瞼を開けていることが困難になる。シャワーを浴びなければ、という理性が脳裏をよぎったのは一瞬で、スノーの意識はあっという間に雲の ようなベッドに吸い込まれてしまっていた。
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翌日、いつの間にかしっかりとベッドに潜り込んでいたスノーが目を覚ましたのは、朝食の四十分ほど前である。
慌てて備え付けのシャワー室に飛び込み、身支度を調えて廊下に出ると、ちょうど掃除に回っていた従業員と鉢合わせた。
「し、失礼いたしました......おはようございます」
「驚かせてしまい、すみません。おはようございます」
クラシカルなメイド服に身を包んだ前髪の長い女性は、スノーと目が合うなり喉の奥で「ひえ」と小さな悲鳴を上げた。即座に目をそらされ重ねて謝罪される。昨晩のジェシカと反応が重なり、スノーは吹き出しそうになった衝動をとっさに噛み殺した。
「あのぅ......ご朝食からは何時頃お戻り予定でしょうか?」
「え? ああ、おそらく一時間ほどかと」
「か、かかかしこまりました......お部屋の清掃に入らせていただいてもよろしいでしょうか......?」
「もちろん、お願いします。そうだ、よろしければお名前を伺っても?」
これまでホテル・カサブランカで出会った人々からは、従業員も宿泊客も問わずに自然な成り行きで名前を聞いている。滞在中、フロアの担当ならば彼女にも世話になるだろうと名前を尋ねたスノーに、メイドは半ば震えながら小声で「あ、あああアビゲイル......アビゲイル・ホールと申します」と小声で名乗った。昨晩の誰よりも小さな掠れ声だが、静かな廊下が功を奏して聞き漏らすこともない。
「ミス・ホールですね、どうぞよろしく」
スノーが手を差し伸べると、アビゲイルの頭は上下に激しく揺れる。スノーの顔と手を何度も見比べているようだが、不思議と目は一度も合わない。
黒く長い髪がバサバサと揺れ、観念したようにアビゲイルが手を伸ばした刹那___ホテルには絹を裂くような悲鳴が響いた。
これが、長い惨劇の幕開けである。