スノー・D・ホワイトは瀟洒な白亜の館を前にして、その美しさに圧倒されていた。
しばし荘厳な外観を眺めていたが、人懐っこい笑みを浮かべるドアマンに促され、館の中へと入る。
ひとたび足を踏み入れれば、外の突き刺すような寒さを忘れさせる暖かさと、どこからともなく漂う百合の芳香がスノーを包み込んだ。
長い髪を二本の三つ編みでまとめたベルボーイが、流れるような所作でスノーのトランクを預かる。小さくお礼を言いながらも、スノーの関心は外観以上に豪奢な内装に寄せられていた。
明かりが灯って美しく輝くシャンデリア、正面に見えるフロントの左右には、貴族の城を彷彿とさせるような巨大な階段がある。インテリアとして並んでいる彫刻の一つをよくよく見れば、瞳にはエメラルドが埋め込まれていた。贅は足下にも凝らされているようで、鏡面のように磨かれた床は大理石だろうか。マーブル模様の白い床には、複雑な刺繍が施された深紅のカーペットがよく映えていた。
スノーは汚れた外履きのまま、高価そうなカーペットへ足を下ろすことに少しだけ躊躇しながら、ベルボーイの後ろに続いた。
ロビーを数歩もいかないところで、スノーは突然、穏やかな低い声に歓待された。
声がした方に顔を向けると、白の燕尾服を上品に着こなした壮年の男が、優雅な仕草でスノーに向かって会釈している。
咄嗟に身構えたスノーだが、男は「ホワイト様でございますね」と目を細め、礼を深くした。
支配人の突然の登場に目を白黒させるスノーだが、ベルボーイは顔色一つ変えずに一歩下がる。スノーが困惑しているのを察したのか、オーウェンは如才なく支配人である自分が現れた理由を語った。
「本日のお客様は皆様、当ホテルとしても特別な方々となりますので、支配人としてご挨拶させていただいております。ご来館、心よりお待ちしておりました、ホワイト様」
「あの、どうして僕の名前をご存じなんですか?」
〝ホテル・カサブランカ〟には、今日初めて訪れたのだ。
当然オーウェンは勿論、従業員の中にも、スノーの顔見知りはいないはずである。
スノーが訝しげに眉を寄せると、オーウェンは柔和な笑みでもって「ホワイト様以外のお客様は皆様、すでにチェックインを済まされておりますので」と答えた。
オーウェンの簡潔な回答に、スノーもとりあえず「なるほど」と顎を引く。確かに、最後の一人が自分なら、名乗らずとも〝スノー・D・ホワイト〟だと見当付けられてもおかしくないかもしれない。
一応納得したスノーが、オーウェンにエスコートされる形でフロントの前に立つと、フロントクラークの女性は妖艶に微笑んだ。
「こちらで招待状をお預かりいたします」
言われるまで招待状の存在を失念していたスノーは、慌ててポケットをまさぐる。
鞄に入れておかなくて良かった。
内ポケットに入れておいたチケットホルダーから、スノーは自分の体温で温まっている白い封筒を取り出した。表面に〝スノー・D・ホワイト 様〟と記された封筒をスノーが差し出すと、フロントクラークは洗練された手つきで恭しく受け取った。
「拝見いたします」
確認されている間、手持ち無沙汰となったスノーは、失礼にならないように注意深く目を伏せながら、フロントクラークを観察した。
黒リップが特徴的な、美しい女性である。
フロントクラークの黒いマニキュアで彩られた爪先が、朱い封蝋に触れる。封はすでにスノーが開けているので、フロントクラークは、するりと指を滑らせて中に入った招待状を取り出した。切れ長の瞳が見定めるように書面を確認する間、スノーは固唾を呑む思いで黒い爪先とフロントクラークの長い睫毛を眺めていた。
「お待ちしておりました、ホワイト様。では、こちらにチェックインのサインを」
「は、はい」
もっと身分証とか確認されるのかと思った。
招待状が本物であるかどうかを検め終えるなり、フロントクラークは事務的な所作で今日の宿泊客用に用意されたと思しき特別誂えのレジストレーションカードを出した。スノーが指定された欄に署名を終えると、静かな声で淡々と「確かに承りました」とだけ告げられ、カードが回収される。すると、寸暇も置かずに意匠の凝らされたルームキーが置かれた。
「こちらがホワイト様のお部屋の鍵になります。お出かけの際はフロントにお預けください」
「分かりました」
鍵を受け取るなり、ようやく夢見ていた日々を送れるのだという緊張からか、口の中が急速に乾いていった。
スノーの掌ほどもある鍵は、まるで宝箱の鍵のようなアンティーク調のデザインで、実際に使うと思うと面食らってしまう。それでも恐る恐る手に持ってみると、確かな金属の重みに心が躍った。
なんだか、物語の主人公にでもなったみたい。
古めかしい鍵に目を輝かせたスノーの様子に気が付いたのか、控えていたオーウェンがそっと声を掛けてきた。
「近年のホテルではカードキーなどの電子ロックが主流のようですが、当ホテルでは多くのお客様からのご要望もあり、昔ながらの鍵を使用しております。もちろん、この100年で盗難などの被害はなく、セキュリティ上問題はないよう従業員一同配慮しておりますので、どうぞご安心を」
「お心遣い、ありがとうございます。楽しみにしています」
スノーが折り目正しく礼を述べると、オーウェンは眩しい物でも見たような顔をして「ご不明点、ご用命などあればバトラーまで何なりとお申し付けください」と付け加えた。
バトラーが付くと聞いたスノーは、こっそりとさらに驚いてしまう。さすがハイグレードホテルというべきか。昂揚感は置いておいて、施錠する鍵の古風さに不安がなかったわけではない。バトラーが付くとなれば、安心できる気がした。
他にもセキュリティにおいては、何か工夫があるのかもしれない。
スノーは改めてフロントとロビーを眺める。
100年もの間、宿泊客達から信頼と実績を積み重ねてきた〝ホテル・カサブランカ〟からは、近代化の波に抗うような、異常なほどの格調高さと誇りを感じられた。イギリスには築何百年という建物が数多く残っているが、館の趣からは100年前から時間が止まっているような錯覚さえ覚える。流行や最先端技術などに流されない確固たるこだわりこそが、このホテルが愛される所以なのかもしれない、とスノーは思わず感嘆の息を漏らした。
「さて、それでは──……」
「デイジー!」
突如、慌ただしくエントランスの扉が開かれた。
開け放たれた扉から入り込んだ冷気が、スノーの剥き出しの頬を撫でる。外は吹雪いてきているようで、頬が雪で濡れたような気がした。
飛び込むように館内へ入ってきたのはドアマンのようだが、支配人であるオーウェンは鋭く目を眇めた。
「騒がしいですよ、ベルント」
オーウェンの姿に気づいたドアマンが、泡食ってすぐに「わっ、支配人!」と頭を下げる。しかし、ドアマンの肩に支えられているのは、ぐったりとした人間だ。一見して分かる緊急事態に、スノーは息を呑む。
「お客様もいらしたのですね、これは大変失礼いたしました! 今しがたゲートを閉めようとしたところ、この男性が木の陰に倒れておりまして。外も吹雪いてきたので、ひとまず中へ連れて参りました」
ドアマンは取り扱いに困ったという風情で、抱えている青年の身体を軽く揺らした。モッズコートを着た灰色の髪の青年は、ドアマンに肩を貸された状態のままぴくりとも動かない。
オーウェンは青年の意識がないことを確認すると、スノーに「失礼します」と詫びを入れ、従業員達へテキパキと指示を飛ばし始めた。
「ウズリフ、すぐにラウンジを確認してきてください。お客様がいらっしゃらなければ閉鎖し、ひとまず彼にはそこで休んでいただきましょう」
オーウェンの命令に、どこからともなく現れた執事服に身を包んだ男が首肯する。足早にラウンジに消えたかと思えば「ベルント、こちらへ」と低い声で言いつつ、戻ってきた自身も気を失った青年の脇の下に身を潜らせた。オーウェンは続けて指示を出す。
「デイジーはここから一番近い病院に連絡をお願いします。連絡が付き次第、私に報告を」
デイジー、と呼ばれたフロントクラークの女性は、オーウェンの指示を聞き終えるやいなや冷静な面持ちでクラシカルな電話機に手をかける。目端でデイジーの動向も追いつつ、三つの背中が消えていったラウンジの入口から目が離せなくなっていたスノーに、ひとまずの指示を出し終えたオーウェンは苦笑を浮かべた。
「お騒がせしてしまい、誠に申し訳ございません。後のことは私どもにお任せください。ダニエル、ホワイト様を客室までご案内してください」
「かしこまりました! っと、その前にスマートフォンなどの通信機器をお預かりいたします」
スノーを案内していたベルボーイは、ダニエルというらしい。
スノーの荷物を預かっていたからか、これまで黙って傍に控えていたダニエルは、明るい声で深刻な雰囲気を吹き飛ばした。手には鍵付きの小洒落た小箱が乗っていて、スノーは小箱とダニエルの顔を見比べた。
何度も目を通した招待状には、今回の宿泊プランについて「歴史あるホテル・カサブランカにて、俗世間から離れた究極のおもてなしをご堪能ください」と書かれていた。そして、注意書きにはしっかりと「当ホテルのサービスをよりご満喫いただくため、ご宿泊中はスマートフォンなどの通信機器を一時的にお預かりいたします」とも明記してあったのだ。
中にはこの一文を嫌煙して、宿泊を辞退した客もいるという。
とはいえ、普段から通信機器の類いをあまり活用していないスノーは特に抵抗なく、箱に自分のスマートフォンを収めた。通っているパブリックスクールでも、スマートフォンなどの携帯電話は談話室以外での使用は認められておらず、基本的に寮監預かりである。
隠し持って使っている生徒もいるが、スノーは規則違反になることを恐れてすらいた。
「確かにお預かりいたしました! お帰りの際に、ご返却いたしますね。万が一ご入り用の際は、バトラーにお申し付けください。では、お部屋までご案内させていただきます!」
ダニエルはスノーのスマートフォンが入った箱をフロントに預けると、淀みない足取りでエレベーターの前まで進む。オーウェンとはフロントの前で別れた。スノーが踵を返すなり、デイジーに声を掛けられていたので、病院と連絡が付いたのかもしれない。
だったら、安心かな。
気分を切り替えて、スノーはエレベーターを見上げた。
こちらも最近では珍しい格子形の蛇腹式内扉があるエレベーターで、スノーは先ほどの騒ぎも束の間忘れて、触れ込み通り歴史を感じさせる造りに見入った。
時計針式のフロアインジケーターが、ジリジリと一階まで戻ってくる。瞬きさえも忘れて針を見守るスノーの横で、ダニエルはいきなり「あっ」と声を上げた。
「失念していました……私、ダニエル・コットンキャンディーと申します。お気軽にダニーって呼んでください」
「ミスターダニーですね。僕はスノー、スノー・D・ホワイトといいます。どうぞよろしく」
「ホワイト様はお客様ですからどうぞ、ただダニーとお呼びください!」
柔らかで親しげなダニエルの笑顔に、スノーは〝ホテル・カサブランカ〟の敷居の高さのせいか、自然と強ばっていた自分の身体から、少しずつ力が抜けていくのを感じた。ほうっと息を吐き、入ってくるときに嗅いだ百合の香りを吸い込む。
「ありがとう。良かったら僕のことも〝スノー〟って呼んでよ。できたら仲良くなりたいからさ」
「かしこまりました、スノー様!」
敬語を崩したスノーに、ダニエルは嬉しそうに顔を綻ばせた。
エレベーターを待つ僅かな間にも、ダニエルとのやり取りに心が温まるのを感じる。
アクシデントこそあったが、このホテルで過ごす数日間が素晴らしいものになったらいい、とスノーはこれからの日々に思いを馳せた。
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