青い空青い海に白亜の砂浜
 カサブランカが姿を変える
7日間だけのサマーリゾート

 これは、そんな夏のほんの1日





Morning―8:30―




Side Snow









 普段学校で規則正しく起床している時間よりも、幾分かのんびりとした朝。

 朝食を取りにビーチに設けられたラウンジへと向かう道すがら、木々を揺らす風が爽やかにスノーの太陽に晒された額を撫でていく。

 数分も歩みを進めれば道は芝生の整った濃い緑から白亜の砂へとグラデーションのように変わっていき、スノーは注ぐ日差しに目を細めながら青空へとビーズ飾りが揺れる喉を反らした。

 まだ照り返しの強くない朝の日光と潮を含んだ湿り気のあるまっさらな空気が全身を包んでいく。
 それにゆったりと繰り返し聞こえてくる潮彩が混ざり、改めてリゾートに来ているんだと頭がふわりとするような実感と高揚感に、スノーは思わず胸いっぱいに海の空気を吸い込んだ。


 ホリデーの間いつもと変わらず学校に残ろうとしていた時に友人から進められたカサブランカのサマーリゾートが、まさかこんなにも大規模な催しだとは思いもせず初日から驚き通しの数日だった。
 抽選に当たったのは自分一人で、友人達の恨み言に送り出された先が突如森の中に現れる広大なプライベートビーチだったとは。

 明日のチェックアウトが残念に思ってしまうほど、楽しい夏だった。
 ぼんやりとこの7日間を思い返すと、スノーは瞳を開け少し落ちてきたサングラスを頭上へと押し上げた。

 朝の海には朝食を取る者、浜辺で寛いだり海のアクティビティを楽しむ者など、スタッフは勿論宿泊客がちらほらと見受けられる。

 沖から立ち上がる大きな白波をサーフボードで乗りこなしているのは、誰だろうか。
 眩さに瞬かせる瞳に広がる光景は、命と夏の輝きに満ちている。

「おはようございます、スノー様!今日はとてもお暑いですね」
「おはよう、ダニエル」

 見知ったピンク色の三つ編みをお団子にまとめ、緩く巻いたサイドの後れ毛をふわりと揺らしながら銀盆を持ったダニエルがスノーへと駆け寄ってきた。

「イギリスだと珍しく気温が高いみたい。まだ少し不思議だけど、いい海日和だね」
「はい、泳ぐにも寛ぐにもピッタリの日です。今日のご朝食はいかがしますか?」

 滞在中毎日顔を合わせてきたダニエルとの会話を楽しみながら、案内された席に腰を下ろした。

「じゃあ、今日はいつもと違うものにしてみようかな……。なにかオススメはある?」

 トースト、サンドイッチ、フルブレックファスト……南国や異国情緒溢れる香りのする中で、毎朝つい食べ慣れたものを選んでしまうスノーは思い切ったようにダニエルに尋ねた。

「いいですね!オススメはたくさんあるんですけど、あちらなんていかがですか?」

 少し考えるようにラウンジのキッチンを眺めたあと、閃いたようにダニエルは湯気の立つ一角を指差した。

 湯気の出所は鉄製の平たく大きな長方形の調理器具のようで、鉄板の奥ではウズリフが夏よりも苛烈な熱気にあてられながら、豪快に両手で華麗なヘラさばきを披露している。

「わ、凄い陽炎ができてる」
「あれはヤキソバと言って、日本の夏の食事でウズリフさん自慢の一品、らしいです。よろしかったら、近くでご覧になりますか?」
「うん、近くで見てみたい」

 ダニエルに先導され近寄ると、鉄板の周囲を満たす嗅ぎ慣れないものではあるが食欲を刺激する香りにスノーは思わず生唾を飲み込み声をかけた。

「わぁ……おはようございます、ミスター・ウズリフ。美味しそうな香りですね」
「おはようございます、ホワイト様。よろしければ一皿お召し上がりになられますか?」

 暑さをものともせずヘラで麺を混ぜ合わせるウズリフにすすめられ、スノーは意を決したように頷いた。

「はい!では、一皿お願いします」
「勿論でございます。それでは失礼して……はっ!高所から流れるように落ち連なる麺……ライヘンバッハ返しです。そしてこれはハイランド盛り」

 ウズリフはパフォーマンスと呼んでも差し支えない流麗な動きで高々とそびえるハイランド盛りを作った皿を2つ、ダニエルへと差し出した。

「夏の海で初めての冒険をなされるのでしたら、僭越ながらお供がいた方が楽しいかと思い……差し出がましい真似を失礼致します」

 微笑ましいものをみるような笑顔のウズリフの言葉に、スノーとダニエルが同時に顔を見合わせ思わずお互いくすくすと笑い出した。

「よければ、一緒に食べてほしいな」
「もちろんです!」

 ヤキソバの盛られた白磁の皿、夏の果実が詰め込まれたフルーツウォーターのガラスピッチャーにゴブレットを銀盆に乗せ、2人で席へと戻りスノーが2人分の椅子を引いた。

「恐れ入ります、スノー様」
「こちらこそ。じゃあ、いただきます……!」
「僕もいただきます……!」

 香しい食欲をそそる少しジャンクフードのような匂いのする麺に、恐る恐るフォークを差し込みくるくると回す。

「大丈夫です……なんであれウズリフさんが作るなら美味しいです!」

 ダニエルも巻き上げたフォークを目の前に、ぱくりと一口頬張った。
 遅れつつスノーも倣うように茶色い麺を口に運んだ。

「……なんだろう、友人とチャイナタウンのヌードルは食べたことあるんだけどそれとも違う。独特で美味しい味が癖になりそうかも」
「はい、ソイソースや果物っぽい甘さもあって……ヤキソバ、いいですね!」

 取り留めない会話を挟みながら、フォークは止まることなく次々に麺が吸い込まれていく。



「お客様とこんな風に食事をするなんて、なんだか不思議な感じがします」

 ヤキソバを綺麗に平らげ、デザートに棒が2本刺さった水色のアイスキャンデーを折りながらダニエルが呟いた。

「ふふっ、ミス・ベネロペが浮かれちゃうのは夏のせいだって」
「ベネロペさんが言うならそうかも知れないです」

 テーブルの真中から張り出すパラソルに日差しを遮られ、差し出されたソーダ味を齧りながら波音に包まれ穏やかにお喋りが過ぎていく。

「スノー様の夏のお洋服、チェックインのお召し物と雰囲気が違って夏らしくていいですよね」
「ありがとう、リゾートに行くって言ったら友人達が夏ならこれくらいって色々見繕ってくれて……少し、派手だよね」

 照れたようにカチューシャで上げた白い額に少しかかる薄紫色のサングラスを手に取り、白く華奢な腕に目立つビーズと太めのバングルごと太陽に翳して見せた。

 元は白いTシャツだったものは夏を盛り上げてくれた友人達の手書きであろう、賑やかなドゥードゥルのように名前や日付にメッセージがカラフルに書かれている。

 ボトムにかかるマクラメ編みが浮かれた南国のホリデーに拍車をかける、全力で楽しむにはこれくらい羽目を外せ!と言わんばかりの友人達の気持ちが見え隠れする優しく楽しい夏の装いに、ダニエルが至極真面目な顔で首を振った。

「とってもお似合いですよ!こんなに素敵な装いで送り出してくれるなんて、素敵なご友人だと思います!」
「僕も、そう思う。癖もあるけど良いところもたくさんあって、大切な友人なんだ」

 スノーがはにかむように言うと、つられてダニエルも小さく微笑んだ。

「スノー様が良いご友人に恵まれるの、分かります」
「そう言われるとなんか恥ずかしいかも……あ、そうだダニエル」

 急に思い出しようにスノーはダニエルに向かってぱっと微笑んだ。

「このシャツ、背中の一箇所がまだ空白でしょ?」

 立ち上がりダニエルによく見えるようにくるりと背を向け指で一箇所をとんとんと示した。

「はい、確かにスペースが残ってますね」
「良かったら、ダニエルも書いてくれないかな」
「えぇっ……あ、勿論とても嬉しいです!でも、大切なお品に……その……」

 思いもよらぬの申し出に吃驚したように声を上げると、嬉しいような困ったような表情のダニエルが悩みながらしどろもどろに返す。

「友人、と呼ぶには不思議な関係かもしれないけど……ダニエルにも書いてもらいたくて。駄目、かな?」

 スノーがまたくるりと反転し今度はダニエルの顔をしっかりと見つめ、少しの勇気を持って言葉を紡ぐ。

 初めて会ってからの日数は浅く立場も違う、屈託なく友人と呼ぶには些か二の足を踏むような関係性だがスノーが体験した一生忘れないであろう夏の思い出には、確かにダニエルがいた。
 明日ホテルから日常に戻りこの日々のことを一夏の思い出として、この友人もいつかの遠い泡沫に消えていく事を惜しく感じてしまった。

 つまるところ惜別を感じて少しだけさみしくなってしまった、そんなスノーのわがままに似た細やかな願いだった。

 ダニエルがスノーの眼差しになにかを感じ取ったように、言葉を止め少し照れくさそうに笑った。

「僕も、スノー様とお友達でいられたら嬉しいです」

 途端にホッとしたようにスノーが深く息をつき、背中を少し丸めた。

「じゃあ、ご友人に僕からも一つよろしいですか?」

 今度はダニエルが己の着ている柔らかな白いシャツの裾を少し引っ張った。






Afternoon―13:20―




Side Benelope








 遮光ガラスのポーチの下、波間の煌めきよりも紳士淑女を輝かせる__

 客室の半分ほどの敷地に建つ、透明な中に白や青の気泡を混ぜ込んだガラスで組み上げられたポーチ。日差しを通して海の中のように光が揺らめく涼しげな店内と相反して情熱的に動き回る者が2人、まるで人魚の髪のような美しさを作り上げている。


_____“コーデル・マッカラン夏の理髪店”


 動くたびにレースのバブーシュカから覗く揺れるミルクティーの髪、溌剌としたベネロペを夏らしい緑とピンクが彩りそれを覆う純白のレースで奥ゆかしい乙女心を忘れずに。
 そう、たとえ開放的になる夏でも抜かりなく乙女であるベネロペは、南国リゾートの看板娘と言った装いでコーデルの要求に忙しく応えていく。

『熱くなっちゃうほど愛らしく夏のように燦々と可愛く、けれど過度な露出はご法度ですよ!』

 人差し指をこっそりと口元に当てたベネロペのメタ的な視線が、忙しい最中一瞬だけ飛んできた気がした。

 対してコーデルは、紺に近い藍色のリネンのシャツに麻のクロップドパンツで品よく普段より少し軽やかに着こなし、目を引くツートンカラーの髪はスカーフを使いカチューシャのように涼しげに装い機敏に夏の美を仕上げていく。

「コーデル様!なにかご入用は御座いますが!」
「いいえ、今はそのまま押さえていてください……助かります、思ったよりも優秀なスタッフがいてくれて」

 臨時アシスタントと理髪師はお客が来るたびに熱い意見交換をし、イメージを固めコーデルが指示を飛ばしベネロペがそれに素早く応え夏の装いをワンランク上のものにしている。
 今は様子を見に来て捕まったアイザックの髪をポンパドールにするか、編み込みをして全体的に纏めるかで侃々諤々していたがやっと話が纏まったようで、2人はその涼し気な装いでも拭いきれないほどの熱気でアイザックにヘアアレンジを施している。

「好きにお任せするけど、お手柔らかにな」
「いいえ!全力でさらに格好良くしてみせます!」

 ベネロペが霧吹きで髪を濡らし前髪を流すように緩く編み、できた編み目を軽くだけほぐす。

「テーマは俗っぽいですがサマーカップルでいきます」

 コーデルがアイロンで全体に外ハネ内ハネを織り交ぜ、柔らかくふわふわとしたカールを作っていく。

 砂浜の上に真水の出る水道から大きな鏡まで備え付けてある、ビーチ上の簡易理髪店。
 ガラスポーチの下では深く腰掛けられるように他よりも大きく設えられたラタンの椅子が構えるように一脚。その後ろには屋外バッテリーに繋がれた数種のアイロンやドライヤー、各種飾りにスプレーなどヘアアレンジに必要なものが、ホテルから運んだであろう大きなチェストの引き出しを埋め尽くしている。

「ベネロペさん、二段目のゴムと上のレース、それと」
「はいっ、ゴム、レース、ソフトめのワックスです!」

 ベネロペはコーデルの指示を今の作業から汲み取り手際良く補佐をしていく。

「本当に、大変有能で助かります。ではそのままリボンを頼みましたよ」
「お任せください!」

 ベネロペの頭を飾るバブーシュカと似たデザインのレースで小さく細いリボンを作り、垂れ下がった部分はアシンメトリーに調整する。

「いいセンスです、これを髪の結び目につけます」

 前髪を七三で分け七の方を緩い三つ編みで横に流し表面は子犬のようにふわふわとさせ、ハーフアップにした結び目にはベネロペが作ったリボンとして飾りアシンメトリーのレースを垂らす。

 アイザックの装いこそシンプルなアロハに膝丈のパンツだが、二人が並んだ時に控えめに存在感を放つレースがお揃いであることを主張する。
 べネロペは感極まるように、小さく声を上げ胸の前で両手を組みコーデルを振り返った。

「コーデル様……!」
「夏ですからね、恋人同士これくらい浮かれてもよろしいでしょう。これは私から今日の給与分でございます」

 今度は勢い良くアイザックの周りをくるくると周り、嬉しそうに鏡の前に並ぶようにぎゅうと押し込んだ。

「アイザックさん!凄く格好良いです!いつも素敵で格好良いけど、夏の特別感があって……お揃いで、嬉しい」
「ちょっと可愛すぎる気もするんだけど……ベネロペが嬉しいならお揃いもいいかも、とか」
「もう……!アイザックさん!」

 熱いカップルに少し鬱陶しそうにコーデルが手を叩き幕を引いた。

「はいはい!次のお客様を呼びますよ」

 跳ねるように鏡から外れると、ベネロペはいつもより一層幸せそうな笑顔でピシッと踵を正し返した。

「はいっ、ベネロペ・ラヴテイカー全力でアシスタント致します!」



 アイザックが退席してすぐ、夏の暑さに茹だる子羊が前を通った。

「おやおやおや!ネクロ様、ここで会ったのも夏の縁、その装いに似合うアレンジはいかがでしょうか。髪もそのままではお暑いでしょう……是非潮風で髪が更に傷む前に軽くケアもして」
「け、けけけ結構ですぅ……大丈夫ですぅ……」

 突進せんばかりの勢いでポーチの前を通りかかったジェシカめがけて突撃した理髪師と、涙目で拒否するのを言いくるめるようにアシスタントは追撃の誘惑をした。

「ジェシカ様、よろしいんですか?」
「な、なにがですか……?」

 蠱惑的に唇を引き上げるとさらりと、一歩白亜の砂を踏みしめた。

「その夏の装い、オーナーからのプレゼント……ですよね?」

 オーナー、の一言にハッと背筋を正すとジェシカはそっと目配せをした。

 黒い大きなリボンのついた純白のストローハットを被る普段と同じ三つ編みの頭。綿で織られた薄手の白いブラウスの上に黒い編み上げロングカーディガンを羽織り、下は黒のハーフパンツに白のサンダル。
 首には金の装飾が施された深紅のチョーカーが目を引く。
 全て上質な物、そして誰が贈ったのか見る者が見れば僅かに感じる装いだ。

「よくご存じですね。ですが、それと髪は別で……」
「オーナーがジェシカ様にと、ジェシカ様のために選んだ特別にお応えしなくてよろしいんですか?」

 ベネロペは、いつかのどこかで見覚えのあるうっとりとした微笑みを浮かべた。

「さあ、いかがいたしましょう?」
「でも、この髪は……あの方が……」

 思わず染めた暑さのせいではない赤を隠すように頬に手を当てたジェシカが、自分だけの大切な時を思い返すように目を潤ませ葛藤するように俯いた。

 今度はベネロペが予想以上の恋の波動に頬に手を当て思わず歓声を上げる番だった。

「まあ!それは!!誰にも触らせてはいけません!」
「え、なに仰ってるんです。ベネロペさん、あなたアシスタントですよね?」

 ベネロペはくるりと踵を返すとジェシカを背に隠しコーデルへと立ちはだかった。

「彼をアレンジするなら私をアレンジしてからにしてください!」
「いえもうしてますよ、よくお似合いです」
「あなたは……」

 ベネロペはニッコリと微笑み、顔だけをジェシカに向け強く頷いた。

「恋する者の、アシスタントです。お逃げください!ジェシカ様!」
「ミス……!忘れませんよ」

 初めて同士に出会ったように、視線だけで頷くとジェシカは背を向け走り出した。
 己のためにこの装いを選んでくれた、尊い方の元へ。

「夏……恋が熱くなる季節ですね……!」
「なに言ってるんですか、次の準備をしますよ」






Twilight―19:50―




Side Sven







 夏のリゾートだから特別にと、ホテルからの計らいで普段遠出をする時にはペットシッターと自宅で留守番をしている愛犬と共に、スヴェンはカサブランカでの一夏を過ごしていた。

 サンセットで茜色に染まる白いアロハは、緩くなりすぎないようにジャストサイズで洒脱に。
 隣を歩く真っ黒な愛犬とは真逆に全身を柔らかな白で統一したシンプルな装いだが、纏うのは上質なものだからこそカジュアルにならないスヴェンらしい粋な夏の装い。

「こんな風に海辺を歩くのは久しぶりだ。近頃は特に忙しかったからね、僕も嬉しいよ」

 時折吹く海風に遊ばれるロマンスグレーの髪を、ゆったりとかき上げる。
 夕涼みにビーチを眺めながら、嬉しそうに先へと進む愛犬の足跡を辿っていく。

「ベッキー!もう少しゆっくり歩こう」

 スヴェンは随分と先までご機嫌なステップで歩いていく愛犬に声をかけた。

 両爪を天に構え戦闘態勢に入っているカニを興味深げに見ていた視線をご主人に向け、わん!と返事をするとベッキーは踵を返しスヴェンの右側に並び、艷やかな黒い体を寄り添わせた。
 ホテルを出る前に頭に被せてもらったストローハットのツバを退かすようにぷんっと頭を振り上げ、澄ましたようにおすわりをするとご主人を見上げもう一度、わん!と鳴いた。

「ああ、ありがとう。君は優雅で理知的な素晴らしい淑女だ」

 頬から喉をつるりとした毛並みに沿って撫でる親愛の滲む視線に、ベッキーが嬉しそうに砂が舞い上がるのもお構い無しに黒い尻尾を振る。

「2人で旅行に来るのはいつぶりかな……」

 少し非難するようにベッキーは頭をぐいぐいとスヴェンの腰に押し当てた。

「はは、すまないすまない。いつも留守を守ってもらってばかりだからなぁ……もう少し散歩したらバーでミルクでも出してもらおう、それから素敵なディナーの後にはブラッシングを、寝る前にビスケットもつけるよ。これで許してもらえるかな、お嬢さん」

 満足気にふんと鼻を鳴らしたベッキーの目に、沈む夕陽に反射してなにかが波間に光ったのが映った。

 おすわりの姿勢のままウズウズと前足を動かす愛犬にスヴェンが苦笑を零し、背を優しく数回撫でた。

「なにか見つけたのかな?折角の夏だ、お転婆な淑女だってたまには良いさ。行っておいで」

 わぁ、と笑うように口角を上げると波打ち際に向かって砂煙を上げながらベッキーが走り出し、前足を海水に浸しながら揺れる波間にじっと目を凝らす。

 チラチラと夕日を反射しているものが海面から徐々に頭を上げ、ゆっくりと浜辺へと上陸してくる。

「やあ、大漁なようだねベルント君!君にかかれば水陸問わず皆獲物になるようだ!」

 水中メガネを首元にぶら下げ、ぐっしょりと濡れた頭を盛大に振るベルントに巻き込まれないように距離を取りスヴェンは少し声を張り上げた。

「大漁です!今日のディナーにしてもらいます」

 夕陽を銛の切っ先に照らしながら海から上がってきたのは、大小様々な魚からロブスターやタコまでが大漁に入った網を持つベルントだった。
 背負っていたプレゼントが入っていそうなほど大きな網を己の前に掲げて見せると、初めてスヴェンの隣で身構えるベッキーの存在に気がついたのか犬歯を覗かせにっこりと笑いかけた。

「こんばんは」
「ん?どうしたんだい、ベッキー」

 ベルントの匂いを一嗅ぎすると途端に警戒するように視線を鋭くしたベッキーは、スヴェンを守るように二人の間に割って入り静かな唸り声を上げた。

「ベッキー、ベッキー……困ったな、普段はこんな事しないんだが。すまない、ベルント君」

 宥めるように背をさすり何度名前を呼んでも目の前から視線を外さず威嚇をし続けるベッキーに対して、全く意に介するでもなく視線を合わせるようにベルントがしゃがんみこんだ。

「わふ!熱心ですね」

 少し怯えたように唸るのをやめたベッキーに笑顔のまま網の中から丸々とした大きな魚を一匹、ベルントが差し出した。

「大丈夫、今日は美味しい魚をたくさん食べるので!あなたにも一匹あげます」

 ベルントがさらにぐいと困惑した鼻先に魚を押しつけると、ベッキーは助けを求めるようにスヴェンを見上げた。

「これは……なにやら和解、したのかな?」

 きゅうと心許なくベッキーが鼻を鳴らして返事をし、渋々と言った感じでベルントの手から生きのいい大きな魚を受け取り口に咥えた。

「お仕事お疲れ様です」

 受け取った魚を地面にどさりと落とすと力強く跳ねる魚を黒い前足で押さえ、ベッキーはわん……と一言返した。

「ベルントさーん!!魚の調達できましたかー?」

 遠くからダニエルが大声でベルントへと釣果を確認する声が、2人と1匹もしくは1人と2匹の不思議な空間を破るように響いた。

「大漁です!」
「炭の用意できたんで戻ってきてくださーい!」

 掲げた網を左右に振るとベルントは空腹を訴える腹の虫をとんとんと叩き鎮め、一人と一匹の前から颯爽と走り去っていった。

「これは、どうしようか……もう少し散歩してからシェフに焼いてもらうかい?」

 スヴェンが残された魚の尾を掴み持ち上げベッキーに向かって問いかけると、魚が一際大きく跳ね笑顔を浮かべるご主人とつられたように笑う愛犬に飛沫を浴びせた。







Midnight―0:06―




Side Daisy








 本日の業務も終わり、そろそろベッドで微睡む者も増えてきた夜更け。

 たっぷりのクラッシュアイスにコーヒーリキュールを喉が弾けるほど強い炭酸で割ったグラスを持って、日中の喧騒が嘘のように誰もいない浜辺を感触を確かめるように歩いていく。

 滑らかな水面にたつさざ波が白銀のムーンロードを静かに揺らし、柔らかい砂は太陽の熱を溜め込み踏みしめるたび足の裏から仄かな暖かさが伝わる。
 穏やかで寒さを感じない気持ちのいい夜風がデイジーを撫で通り過ぎていく。

 波打ち際から程近い距離にあるビーチチェアに腰掛けると硬めのクッションに背を預け、デイジーは気怠げに白い足を投げ出した。

 両手で包んだままのグラスから水滴がポタリと胸元に垂れるのも気にすることなく、ただ波の音を聞きぼんやりと海を眺める。
 森に阻まれデイジーまで届くことのないホテルの明かり、誰の血も流れない嘘のように平穏な世界。

 グラスに刺さる黒いストローを咥え一口啜ると、多少氷水と混ざっても衰えぬ喉を弾くような強い刺激にこの平穏な世界が紛れもなく今ある現実なのだと思い知らされ、束の間呆れたように久方ぶりの大きな笑い声を上げてしまった。

「こんな子供でも見られるような世界で満足するのなら、毎回こうしていて欲しいものね」

 こんなに穏やかな時はいつぶりだろうか、少なくとも人間を捨ててからはない。
 何十年、何百年、緊張の糸を途切れることなく紡いできたのか。

「……私の格好、姉達が見たら倒れるんじゃないかしら」

 風にゆらりと舞うドレープ、纏う黒は彫刻のような体躯に映え大胆だがデイジーが常より醸し出す落ち着いた雰囲気と相まって上品に収まっている。
 所々にあしらった金の飾りは昼は太陽を夜は月の光を受けてデイジーの身動ぎに合わせきらりと光り、流れるような黄金の髪と重なり夜の海辺で横たわる姿はさながらギリシャ神話の女神のように見える。

 デイジーが人間として生きていた頃の水着事情を考えると、当時の下着よりも過激に露出している今の姿は確かに姉達が卒倒するものかもしれない。

「ふふ、見せられないわね……こんな、姿」

 少しさみしげに長い睫毛を伏せるとまた一口、ストローを啜った。

「こんな思い、していいはずがない。奪った命を喰らって、こんな思いしていいはずがないのに」

こんな……

「あ、先客がいたようですね」

 じっとグラスの中に囲われた黒い水面を見つめていると、突然横から声をかけられ驚いたようにデイジーは声の方に顔を向けた。

「こんばんは、ミス・デイジー」
「こんばんは、ホワイト様……すっかりお休みかと。お客様の前でこの様な姿、失礼致しました」

 なにやら大きな袋を抱えたスノーを筆頭に保護者役だろうか、スヴェンとその後ろにギャスパルとコフィンが続いている。

「そのままで構わないよ、この時間では君達も流石にオフだろう。僕らこそレディの憩いをお邪魔してしまって申し訳ない」

 軽く腰を折り謝罪をするスヴェンの横で感心するようにスノーが目を瞬かせた。

「お心遣いありがとうございます……皆様はこんな夜更けになにをされて?」
「最高の海だってのにイイコちゃん達が寝ようとするからさァ、ガイフォークスでもなろうと思ってねン♪」

 にへらと笑い手ぶらで飄々と夜の海を楽しむコフィンの後ろから、海から汲んだのだろう水入りバケツを2つ重そうに運ぶギャスパルが辟易としたように続けた。

「夜中に叩き起こされた時はエルロックの次は君かと思ったけど……言葉はともかく、見かけによらず随分といい楽しみ方だと思って」
「なぁにギャスパル君、オレと見た目通りの楽しみ方でもすンの?」

 口角を艶やかに上げ思わせぶりに一歩近寄られ大慌てで両手を振り否定しようとするが、バケツがパシャパシャと音を立てるばかりのギャスパルを一頻り笑うと飽きたようにコフィンはスノーの横から花火を物色しはじめた。

「まずは手持ちからだろうか、スノーはなにがいいかな?」

 大量の花火を広げ悩むスノーの横からひょいと刺青で彩られた腕が花火を4本の奪っていった。

「悩むならぜーんぶやりゃイイじゃん」

 スノーの返事を待つこともなく早速ライターで火を点けると、コフィンはなにやら小型の筒を抱えてさっさと消えてしまった。

「じゃあ、僕もこれとこれで。ミス・デイジーは?」

 スヴェンが差し出すライターの灯火に照らされた、無垢で楽しそうな笑顔がデイジーを伺う。

「……いいえ、お誘い頂き恐縮ですけれどお客様がどうぞお楽しみください」
「ミス・デイジー……あの、お嫌じゃければ、どうかご一緒にいかがでしょうか」

 いつもより少し強引に誘うスノーに思わず動きを止め、考えるようにデイジーが問いかけた。

「お気持ちはありがたいですけれど……何故、でしょうか」

 表情にこそ表れないが困惑を含んだ声色に、スノーはしっかりと蜂蜜色の目を見つめ答えたを返した。

「先ほど、お声をかけた時になんだか泣きそうな顔に見えて……不躾で申し訳ありません。でも、泣きそうなレディを放っておきたくなくて」

 今度こそ面食らったように数秒固まると、デイジーは人差し指で軽く自分の目尻を撫でた。

「こんなに素敵な夜にそのように素敵な紳士にお誘いされたら、断る方が無作法でしたわね。私の花火も、選んでいただけますか?」

 デイジーの静かな微笑みにスノーはほっとしたように顔を綻ばせ、金の火花が控えめに咲く一本を渡した。

「レディ、では僭越ながら僕が火をつけよう」

 静かに紳士の行方を見守っていたスヴェンがスノーの背を軽く叩き、こっそりと称賛するような目配せを送った。

「あら、恐れ入りますわ」

 合わせるように少しふざけたデイジーとスノーの控え目な笑い声を掻き消すように、コフィンが同時に夜空に打ち上げた幾つもの花火の爆音とギャスパルの賑やかな悲鳴が聞こえてきた。




― the next day ―



古くから続くこのホテル・カサブランカは
皆様のご愛顧により
サマーリゾートを開催する事ができました。
お客様への日頃の感謝の気持ちを込めまして、
抽選11名様限定の半貸切状態で
この夏の7日間をお楽しみ頂こうと考えております。

さあ
場所はイギリス、時は盛夏。
波乱と策謀渦巻く、
薔薇戦争 in カサブランカリゾートが
幕を開けます。

趣向を変えた私のホテルで、
果たしてどんな喜劇が見られるのか
どうぞ涼しいお部屋でご一緒に……
ああ、お飲み物はいかがでしょう?

では、
ごゆっくりとお楽しみください__




本編再生 ▶︎


- Life is a bed of roses. -




 眩しすぎる青い空に透明の飛沫が舞う。
 射す太陽に頬は赤く、満タンの重いウォーターガンを握る手に自然と気分が高まる。

 スノー・D・ホワイトは目の前に広がる白亜の砂浜を前にして、その美しさと異様さに圧倒されていた。

 真水とは違う潮の香りを含んだ風を受け何故かカモメが夏空を舞い、遠くでは銀の鱗をきらきらと輝かせ魚が跳ねている。
 白亜の砂浜にはどのような仕組みか沖から波が打ち寄せ、時にはビックウェーブまで迫ってくる。

 スノーは呆気にとられ圧巻のビーチサイドを眺めていたが、夏が似合う人懐っこい笑みを浮かべたライフセーバーのような出で立ちのドアマンに促され、白い砂浜に足を踏み入れた。

 丘の上に立つホテルの敷地に突如として現れた広大な砂浜と完璧な海。
 あり得ないシチュエーションにこれは異質だと己の常識が異常を知らせるが、その反面つい夏の眩い海に心を浮かされてしまう。

「こちらです、ついてきてください」

 ベルントが歩くたび砂浜にできあがるぺたりとした裸足の足跡に、スノーも恐る恐るビーチサンダルを脱ぐと白い砂浜に裸の足を乗せた。

 少しだけ熱い砂がサラサラと沈み、自重によってスノーの足跡の窪みをつくっていく。

「凄い……細かくてサラサラで、それにとても白くて綺麗なんですね」
「はい、柔らかくて気持ちいいです」

 なんとなく顔見知り程度にはなっているベルントに、高揚感に背中を後押しされたスノーはずっと気になっていた事を問いかけた。

「あの、どうしてホテルの裏に海が……」
「夏ですから、海があります!」

 スノーの当然と言える疑問に、夏の日差しのような笑顔でベルントは当然と言うように返した。

「えっと、夏だから、ですか。じゃあ、この薔薇はなんなのでしょうか?」

 ホテルから出る際フロントで渡された本物と見まごうほど精巧に作られたペーパーフラワーの赤薔薇。
 香りまで漂ってきそうな幾重にも綻ぶ紙製の花弁は、これから海で遊ぶことを考えるとあまり水場に向いているとは言い難い。

 スノーはまた当然と言える疑問をぶつけた。

「薔薇です」
「あの……何故、薔薇が配られたんですか?」
「夏ですから!」

 ベルントのまたもや当然ですと言わんばかりの顔に、ふといつだか友人達と過ごした夏の記憶がスノーの頭に過ぎっていき暑さで火照る有耶無耶とした頭が答えを導き出した。

「夏、だからか。それもそうかも知れないです」
「それもそうです」

 どこか噛み合わない不可思議な問答を繰り返してるとビーチの中ほどでベルントは案内の足を止め、スノーは目を惹かれ眺め続けていた海からベルントへと視線を戻した。

 そびえる椰子の木を背景に濃い焦げ茶の木組みと柵、南国の樹木から拝借したような大きく艶のある緑の葉っぱと葦で作られた茅葺き屋根。
 作られた日陰の中央にはカサブランカを束ねた豪奢な花束が、三人がかりでも持ち上げられないほどの大きさの氷柱の中で美しい姿を留めている。

 突如飛び込んできた南国のヴィラのようなラウンジに、スノーはベルントへ礼を言うと物珍しさに好奇心を抑えきれずきょろきょろと辺りを見渡しながら足を踏み入れた。
 丸太を規則正しく組んだ床に緩やかなシーリングファンが回る室内。
 最奥には涼しげな見た目のガラスのバーカウンターが鎮座し用意された氷の雪山から既に夏の装いに彩られた宿泊者達が、好き好きに冷えたドリンクやウェルカムフルーツを楽しんでいるようだ。

 宿泊客、スタッフ共に全員集まっていたようで、スノーの到着を認めるとフレデリカを挟んでスヴェンと談笑していたオーナーが静かに朗々と響く声を上げた。

「皆様、おはようございます。昨夜はよくお眠りになれましたか?此度はカサブランカサマーリゾートへお越し下さり、ありがとうございます。一同大変喜ばしく、また皆様により良い夏をお楽しみいただきたく……僭越ながら、サマーリゾート2日目の本日はイベントを設けさせて頂きました」
「イベント?」

 思わず繰り返したギャスパルを一瞥し微笑むと、オーナーは促すように芝居がかった仕草で仰々しく両手を広げた。

「ご持参もしくはフロントでお渡ししたウォーターガンと、麗しい薔薇は皆様行き渡っていますね。よろしい……では、ベルント」

 オーナーに呼ばれ聴衆の前に出たベルントの腕には、握り拳程の大きさの赤薔薇が両サイドから蔓のように伸びる翠のリボンによって二の腕を飾るように結ばれている。

「今から皆様には赤と白、2つの陣営に別れていただき古きを新しく薔薇戦争に興じようと存じます。さて、こちらにあります薔薇は水に触れれば忽ちこのように……」

 言うやいなやオーナーは傍らにあったグラスの水を軽く放ると、水は放物線を描きベルントの腕に咲く薔薇へと当たり、水を吸った箇所から赤薔薇がじわりと白く染まった。

「赤は白く、白は赤く。このように水を吸収すると色を変える染料を使ってあります。刻は正午まで、それまで己の薔薇を守りきった者を勝者と致しましょう」

 オーナーの宣言に興味深そうにする者も何人かいるが、如何せん目を輝かせて水遊びを楽しむ年齢をとうに過ぎた者が多い。

 そんな中、クレアが呆れた様子で口火を切った。

「あらあら、皆で水鉄砲合戦でもするのかしら。アクティビティとしては少し子供じみてないこと?」
「クレア嬢ではないが、僕も若者と渡り合える気がしないな。安楽椅子はなさそうだからね、モヒートとハンモックで観戦と洒落込むのが良さそうだ」

 苦笑するようにスヴェンも手を挙げた。

「私も、折角ですけれど楽しむのは難しいと思いますわ」
「私も……」

 ナジー、エレノアも先達に続き申し訳なさそうに辞退を申告した。

「勿論、ただの水鉄砲合戦では味気がない。そして皆様が平等に楽しまれますよう、ご用意もございます……まず、勝者には今後100年の宿泊をお約束致しましょう」
「100年?!それはいついかなる時も宿泊して構わない、アポなしでもいい、そういう事よね?」

 100年、思わぬ勝利の栄光にまずクレアが飛びついた。

「ええ、勿論です。いつ、いかなる時も100年の保証を。例えどんなに急な訪問でも、お客様の為の一室をご用意致します」
「そんなに良い話なら乗るわ、薔薇を守り切ればいいだけでしょう?」

 クレアが自分の手首に翠のリボンを結び赤い薔薇を飾った。
 オーナーは微笑むとナジーへと向き直り柔らかく声を落とした。

「シャンドリー様いかがでしょう、指示を与え守り攻める番犬を伴うのは」
「番犬、ですか?」
「ちょうど今ここに薔薇の色を変え失格した優秀な番犬がいます、彼がいてはゲームバランスが些か崩れる程に身体能力が高い」

 いつの間に背負ったのか、2ガロンは余裕で入りそうなタンクを背にホースで繋がった黒いバレルを持ったベルントがナジーの左側にお供のようについた。

「彼は貴女の言の葉にのみ従います、己の判断では動かない」

 考えるように白い指を白い頬に当てると、ナジーはホテルでウズリフに結んでもらったリボンを軽く引いた。

「そうですね……夏ですもの、童心に返って遊ぶのも良いですわね。貴方に私の薔薇をお預けしても、よろしいかしら?」

 手首に巻いていたリボンを解きそのままそっと己の左側、声のする空間へと赤い薔薇を包む手を差し出した。

「はい、ご命令なら守ります!」
「まあ、頼もしい。よろしくお願いしますね、ベルント様」

 少し戯けたようにオーロラの光彩を放つパレオをカーテシーのように持ち上げ軽く膝を折ると、ナジーはそのまま近くにいるスヴェンへと笑いかけた。

「スヴェン様、折角ですしいかがですか?」
「いや、楽しげな催しだが僕には少し荷が重いようだ」
「では、モルゲンシュテルン様も番犬をお供してはいかがでしょう。愛らしい番犬が、いるではないですか」

 声をかけられ今までスヴェンの傍らで伏せて耳を動かし話を聞いていた黒い愛犬が、誇らしいように、わん!と返事をし立ち上がった。

「ベッキー、本気かい?水遊びは好きだろうけど……」
「他の物とは違うウォーターガンもお渡しします。紳士には、スパイガジェットでしょう」

 そう言うとオーナーは黒いコウモリ傘をスヴェンへと手渡し悪友のように、にやりと笑った。

「やれやれ、君は……祖父に似てきたんじゃないか?」
「それは光栄ですね。ベッキー嬢にはこちらをお渡ししましょう」

 片側に噴射口のような穴が空いた細く透明な筒をベッキーの口元に差し出し、咥えさせた。

「これを強く噛めば水が飛び出ます。ご主人を守るとよろしい」

 ベッキーはすぐさま筒を噛む牙に力を込め、勢いよく飛び出た水は見事に目の前の人間に命中した。

「す、ふふっ……すまない、うちの子は賢いレディなもので」
「……確かに、賢い。ではこれでお二人もお楽しみいただけるようですね」

 オーナーが面白げにかけられた水を拭いている隙に、ベネロペがこっそりとエレノアに耳打ちをした。

「お嬢様、一夏の甘い思い出を胸に一生を生きる……私はそんな恋も、ローマの休日のようで素晴らしいと思います」

 思わず肩を大きく跳ね上げ驚きに目を大きくしたエレノアは咄嗟に出そうになった声を両手で抑えると、ベネロペの手を引き慌ててスキアーから数歩離れた。

「ベネロペさん……!な、なんのことでしょうか……」
「恋する乙女の勘です!」

 否定しようと顔を真っ赤にして百面相するが、慈愛すら感じる穏やかなベネロペの瞳に観念したようにエレノアは顔を赤く染めたまま溜め息を吐き小さく頷いた。

「そんな素敵な記憶を作るのは我儘でもなんでありません。お嬢様、是非遊びましょう」
「ですが……小さな子供でもないのに水遊びをしたいなんて、はしたなくて……」

 ミントグリーンに染めたしゃらりと揺れるオーガンジーのワンピースをきゅっと握り俯くエレノアの手に、ベネロペはそっと指を乗せた。

「大丈夫、夏には誰もが恋のように浮かされてしまう魔力があるんです。ペアで一緒になって身を隠し、守り守られて……きっといつまでも色褪せる事なく、お嬢様を支える輝く思い出になりますよ」
「そう、でしょうか……。でも、スキアーさんは」

 乙女達の内緒話に距離を保ったまま様子を見ていたスキアーを伺うように、エレノアが声をかけ振り返った。

「はい、なんでしょうか」

 用意万端二丁拳銃のように高圧洗浄機を構えたスキアーが恭しく返事をした。

「!!だ、駄目です!それは強すぎます!」
「ですが、お嬢様をお守りするにはこれくらいしてもよろしいかと」

 せめて一本に、いや譲りませんと攻防を繰り広げだした2人を見つめ満足気に微笑むと、ベネロペはオーナーへと頷いた。

「では、皆様各陣に分かれ30分後、薔薇戦争開幕と致します。どうか、幸運を」


✧ 白薔薇陣営 ✧
 
  1. コーデル・マッカラン
  2. エレノア・ポートマン、スキアー
  3. ギャスパル・ミュレー
  4. エルロック・ホームズ
  5. スヴェン・モルゲンシュテルン、ベッキー
  6. フレデリカ
  7. ベネロペ・ラヴテイカー
  8. デイジー・グッドゲーム
  9. ウズリフ・リヴィンスキー

✦ 赤薔薇陣営 ✦
 
  1. クレア・ウィンストン
  2. コフィン・ドジャー
  3. ジェシカ・ネクロ
  4. ナジー・シャンドリー、ベルント・コールマン
  5. スノー・D・ホワイト
  6. ヴェルナー・ハイゼンベルク
  7. アビゲイル・ホール
  8. ダニエル・コットンキャンディー
  9. アイザック・フォーサイス


 こちらの采配でお客様、従業員を以上の陣営に振り分けさせていただきました。

 圧倒的な差があってはゲームがつまらない、構成にバランスは見ましたが番狂わせも大いに結構……と言った布陣でしょう。
 さて、才能は他の誰も撃つことのできない標的を撃つ。そして、天才は……これはこれは、面白い。
 私も知らぬ、思わぬ才を持つ者がいたようだ。




act 1




『皆々様、ご準備は整いましたか?それでは5、4、3、2……1。薔薇戦争inカサブランカ開幕です、有事、脱落者が出た際にはこちらの放送でお知らせを致します。それでは、ご健闘を』

「私は特等席からの観覧を失礼するとしましょう」

 咳払いをしたオーナーがビーチチェアにゆったりと横たわり静かに翡翠の双眸を閉じ、夢見るように不遜に微笑んだ。

「さあ!開幕したわ、スヴェンおじ様一緒に遊びましょう」

 透明なアクリル生地を赤いリボンで飾ったポシェットに水鉄砲にお菓子に水筒をいそいそと詰め終わったフレデリカが、自信満々に両手を腰に当て子ども特有の期待に満ちたキラキラとした目で、自分より高いところにあるスヴェンの顔を見上げた。

 オーナーの開会宣言から数分。
 海に面した広い場所を避け両陣営に分かれる者や個人で身を潜める者など、開戦までの猶予で皆勝利の準備をしているようだ。

「遊びに貪欲な君と一緒なら怖いものなしだ。さあ、どこに向かいますかな?フレデリカ嬢」

 片膝をつき伺うスヴェンに、フレデリカが迷うことなくぴしっと林を指差して答えた。

「もちろん、隠れて隠れて……飛び出すのよ!狩りの大事なことってベルントが言ってたわ」

 スヴェンの左側で控えていたベッキーが先陣を切って林に向かって駆け、振り返ると2人に向かってこちらも自信満々に一声吠えた。

「ベッキーが隊長ね。いいわ、2人で敵をびっちゃびちゃにしましょ!」
「僕の両手には少し余りそうな花だけど、参加した手前オーウェンに酒の肴にされないよう頑張ろうか」

 元気よく揺れる水着にたっぷりとあしらわれた白いフリルと、それに並んでぶんぶんと揺れる黒い尻尾に続いてスヴェンも歩みを速め3人は林へと消えていった。

『最初の脱落者はフレデリカ、我儘をせず戻っておいで』

 林の中央エリア、太陽が崖越しに影を作るブッシュの側でコーデルが不可解そうに眉を寄せた。

「今の放送、どこからですか?」

 近くにスピーカーやカメラなどが仕掛けられていまいかと、鍔広の黒い帽子を脱ぐと用心深く辺りの木々を見回した。

「機器はなにもないようですね……オブザーバー以外が見たら一発で終わりでしょうし」

 帽子を浅く被りなおし子供の遊戯まがいのイベントに参加している自分に呆れたような溜息を吐き、コーデルは両手に抱えるシルバーのウォーターガンを見た。

 腰にはホルダーがいくつか付いたベルトを巻き、水を蓄えたマガジンを備えている。

「改めて見ると私の装備重いですね……動きにくいですし、時間までやり過ごすか」

 木の幹に体を預け葉の隙間から空を見上げると、一瞬黒い鳥のようなものがコーデルの頭上を通過していった。

パシュン__

 穏やかな発砲音にも似た音と共に、コーデルがシャツの胸ポケットに挿していた白薔薇が赤く染まった。

「は……?」

『コーデル・マッカラン様、残念ですが脱落です。海辺ラウンジまでご帰還願います』

 どこからか響くアナウンスに、コーデルは冷たく感じる胸元を見ると確かに水がシャツの色を濃く変え赤薔薇から水滴が落ちている。

「いったい、いつ、誰にやられた……はぁ、柄にもない。もういいです、戻って涼しい場所でカクテルでも飲みますよ」

 コーデルから数十m離れた崖の上、太陽が作る逆光の中でアビゲイルが項垂れるように深く息を吐いた。

「うー、はぁぁぁ……」

 影から立ち上がり疲れた顔で浜辺へと戻るコーデルの姿を見送ると、体育座りのようにした足の間に置いたスタンドの上で黒光りしているライフルのスコープから顔を上げ、今度は息を深く吸った。

「これで2人……こんな目立つ場所、バレたらすぐやられると思うんだけど」

 狙いを定めるために少しだけ隙間を開けていた前髪を普段通りに整え直し、逆光の中で隠れるように寝転んだ。

「あとなんでこんなに水鉄砲が飛ぶんだろ、なんでこんなに飛ぶ威力の水に当たって平気なんだろ……不思議だなー」

 お客様と此度に限り平等に、楽しく、ゲームに参加するように。と渡されたよく冷えた缶ビールに口をつけ、暇そうにアビゲイルはその場で薄い紺色のパーカーに草を散らしながらごろごろと転がった。

「なんか変だけどたまにはいっか、夏だし」
「わん!!!」

 崖上まで届いた然程遠くないであろう場所で吠えるベッキーの声に、アビゲイルは飛び起きると慌てて耳元に手を当てた。

「右手、300m……」

 先ほどと同じ姿勢を作り急いでスコープを覗くと、木々の開けた場所に黒い傘を差したスヴェンが佇んでいる。

「傘かぁ……これじゃ狙えないかな、ベッキーちゃんは?」

 標準を少し動かすと、スヴェンから僅かに離れた所で空に向かって鼻をすんすんと動かす黒い犬がレンズ越しに見える。

「えへへ、可愛い……ん、なに?」

 なにかを嗅ぎ取ったように顔を下ろすと、にぱっと笑うように口を開けたベッキーがレンズ越しのアビゲイルに向かって、わん!と一言吠えた。

「いや、こんな遠くまで……まさか見えてないよね」

 傘の位置が下がり僅かに出た手が優しくベッキーの頭を撫でなにかを差し出すと、数回尻尾を振り茂みの中に飛び込むようにベッキーの黒い姿が見えなくなった。

「とりあえず、スヴェン様の隙を狙わな……な、なんでしょうか?」

 びくりと肩を跳ね上げ、再び自分の耳元に手を当てるとアビゲイルはスコープを覗きこんだまま不安そうに空中に向かって尋ねた。

「逃げろ……?なにが、っ!!」

 突然スコープの中が暗闇に覆われ、驚き勢いよく顔を跳ね上げたアビゲイルのいつもより開けた視界に、可愛い黒い顔がご機嫌に飛びこんできた。
 ベッキーは尻尾を振りながら跳ねるようにアビゲイルへと無邪気にのしかかり、口に咥えている水のたっぷり入った筒をそのままぎゅっと噛み締めた。

「わん!!」
「うわっ……!!も、もうー!吃驚しちゃうでしょ、可愛いなぁー!」

 全身に水を浴びせられ薔薇の色を変えられたアビゲイルは怒るでもなく、笑うように口角を上げるベッキーをそのままわしわしと撫で回した。

「上手いことやったかな。いや、警戒して傘を差しておいてよかった……まさか、カサブランカにこれほど優秀なスナイパーがいるとはね。ほとほと恐れ入るよ」

 崖上でアビゲイルとじゃれているであろう愛犬に微笑むと、傘を閉じゆっくりと腰を反らせスヴェンは軽く目を細めた。

「おや、あれは……ああ、なるほどこれで……兵法はいつの世も変わらないようだ。で、逃げ場のない僕はどこまで応戦できるのか、ゲームといこうか」

『アビゲイル・ホール、スヴェン・モルゲンシュテルン様、脱落です』

 情報を制するものは戦いを制す、とはよく言ったものですが相手もまた然り。どちらが制するのか、これは見ものですね。




act 2




✧ Side White Rose ✧

 薄く黄色に色づきだした実が鈴生りに枝々を飾る木の下で、周囲のみならず快晴の青空を警戒しながら従業員3人組が声を潜め作戦会議をしていた。

「おかしいわ、随分と動きにそつがなさすぎる。アビゲイルが単独でスナイプはないでしょうし…………そう、インカムね」

 デイジーが己の片耳にはめたままの黒いインカムを指で軽く弾いた。

「さっきから見回ってるドローンで敵を発見して伝達、排除。この芸当だとアイザックかウィンストン様かしら」
「なるほど、指揮官がインカムで指示を出しているなら話は早いです。どちらがフィクサーかは分かりませんが、それならこちらも情報戦と致しましょう」

 ウズリフはにこりと微笑むと姿勢を低くし警戒を解かぬまま、胸ポケットに差し込んでいたスマートフォンを取り出した。

「時間はかかる?」
「インカム自体簡単な作りのものですから、アマチュアラジオの周波数拾いと言った感じでしょうか。5分、守ってください」
「ベネロペ聞いたわね?」
「了解です!傍受するまでの時間稼ぎですね!」

 ベネロペはぴしっと敬礼のように額に手を当て、やる気十分の顔で勢いよく頷いた。

「こちらは3名やられちゃいましたし、どなたかと合流して攻めないとですね……ローワンの下になんて、いつまでもいたくないですし」

 頭上に茂る枝を苦々しげに見上げ居心地が悪そうに呟くと、ベネロペは近くに落ちているローワンの実を遠くへと放り投げた。

「そうね、あちらの数も減らしたいところだけど……あれが索敵して居場所を伝えるなら動かない方が賢明ね」

 先程樹上を過った花粉を集めるミツバチのように足に丸々とした水風船を搭載した黒いドローンが空中でピタリと止まると突然Uターンをし、何かを探すようにデイジー達の上空をうろうろと旋回しはじめた。

「お姉様、ドローン戻ってきちゃいましたよ!」
「なにか見られたか、それとも随分と勘が良いのね。ベネロペ、それを預けて走れる?」
「えぇ……どこまでですか?」

 困ったように眉を下げたベネロペから手渡された可愛らしいウォーターガンの水を抜きながら、デイジーはちらりと偵察を続けるドローンを見た。

 枝の下までは降下しないようだが、執拗に旋回を続けている。

「撃ち落とすまで」
「あら……結構やるのね。さて、ここからどうしようかしら」

 ドローンを通して中継しているクレアのスマホに映った最後の映像は、逃げるベネロペの後ろ姿と死角から直撃したのであろう可愛らしいデザインのウォーターガンと共に、地面に激突する瞬間だった。

「迎撃されるのは想定済みだし、開幕3人減らせただけ上出来よ。撃ち落とされた地点に最低2人はいるとして……どちらも向かってもらう方が良さそうね」

 片耳にはめている黒いインカムを触ると、クレアは僅かに声を落とした。

『ドローンダウン、中央から東北に大体200m。2人で向かってくれる?』
『了解です。相手は誰か分かりますか、どうぞー』
『あなたの恋人さんと……そうねぇ、組み合わせから考えてバトラーってところかしら』
『ウズリフさんもいるんでしたら、確かに2人の方が良いですね。アイザックさんと合流して向かいます!』

 はたと考えるようにドローンが撃ち落とされた方角を見つめると、不敵に唇を上げクレアは言葉をつけ加えた。

『……切れ者のフロントもいるわね。これは勘だけど、私の勘は当たるのよ』
「だ、そうですよ、切れ者のフロント。勘とは経験によって培われていくもの、まさにお見事なジャーナリストの勘ですね」
「よく回る口も何百年前から培われてるのかしらね」

 スマホから流れてくるクレアたちの話を聞き、からかうような視線を送るウズリフを一蹴しデイジーが己の装備を確認した。

「アイザックさん達こっちに来るみたいですけど、どうしますか?」
「私は、迎撃する気はないわ。ベネロペ、あなたの水鉄砲使っちゃったからこれを持って行って」

 麻のネットに水風船がいくつか収まっているウエストポーチを外しベネロペに手渡すと、デイジーは軽く辺りを見渡しながら立ち上がった。

「ウズリフ、ウィンストン様の場所は分かる?」
「はっきりとは、ですがこのインカムの範囲から精々300m以内でしょう」
「じゃあウズリフはウィンストン様を、私達はできれば2人を。ここで一気に叩きに行きましょう」

 申し訳無さそうに水風船を両手に握りしめると、意を決したようにベネロペが頷いた。

「オーナーからの指示は全力で対等に遊ぶ、ですもの。さあ、行くわよ」

 ウズリフはキャッチした音の明瞭さを測るようにスマホを片手に小走りで駆け出し、それを見送った後デイジーとベネロペは木々の影から飛び出した。




✦ Side Red Rose ✦


 水溜りの中どこか物悲しげに落ちていた黒いドローンを回収すると、アイザックはクレアへと呼びかけた。

『こちらアイザック、現着しましたが既に誰もいないですね、どうぞー』
『時間的にそこまで離れてないはずよ。1人、欲を言えば2人押さえておきたいところね』
『了解です、どうぞー』

 ドローンを小脇に抱えると僅かに過った違和感にアイザックはローワンの木の下を凝視し、はっとしたように首を振った。

「誰がいるか分かんないし、離れ過ぎずで詰めて行くか」
「ふふ、なんだか大人になってからする本気の遊びって楽しいですよね」

 思わず溢れた笑い声を隠すように赤い薔薇を飾った手で口元を覆うと、ダニエルは了解ですと敬礼をし目の前の茂みへと歩みを進めた。

「そう、遊び……遊びなんだけどこの手の遊びだとつい、なぁ。ゲームなんだから、気をつけないと」
「あれ?これ……アイザックさん、ベネロペさんのリボンが」
「ダニエル、ストップー!」

 地面にくたりと落ちていたレースのリボンを拾おうと伸ばしたダニエルの手めがけて、ストライプ柄の水風船が風を切って飛んできた。

「う、わ……!吃驚したぁ……」

 咄嗟に腰へと回されたアイザックの手がダニエルを強引に後ろへと引っ張り、今しがた伸ばした手があった場所は水に濡れ地面の色を濃く変えている。

「アイザックさん思ったより早いご到着ですね。機敏で判断力も流石です!」

 木の陰からひょこっと顔を覗かせたベネロペが、向日葵のような笑顔で小さく拍手をしながら現れた。
 その手には武器もなにもなく、敵意も感じられずアイザックは悩むように頬をかいた。

「まあね、ところでベネロペは?1人?」
「はい、お姉様と分かれてここで2人が来るのを待っていたんです」

 アイザックはダニエルに待機しているように手で合図すると、ゆっくりとベネロペに向かって歩き出した。

「アイザックさんは私のこと、撃ちますか?」
「んー……そうだな、どっちだと思う?」

 一歩、また一歩と止まることなく縮まる距離にベネロペの顔が悲しそうに顔を伏られていく。絵に描いたように萎れたベネロペに思わず吹き出すと、アイザックは伏せられた顔をそっと両手で包み優しく視線を合わせた。

「ふ、くくっ……そんなしおしおにしょんぼりしなくても……ごめん、ごめん」
「もう、でもいいんですか?私達、敵なのに」
「いいよ、ベネロペが嫌ならお遊びでも撃たないって」
「アイザックさん……!!」

 ベネロペのつい先程まで悲しげに伏せられていた睫毛が震え、感極まってアイザックへ強く飛び込んだ拍子に何かが破裂する音がゼロ距離になった2人の間から響いた。

「あ……忘れてました……」

 ベネロペが腰から下げていた幾つもの水風船が前後からの圧に耐えきれず、2人の間で挟まれ爆発していた。
 勿論、水を盛大に炸裂されながら。

「そんな、ベネロペがそんな悪女だったなんてな……俺、騙されてたんだ……」
「ちーがーいーまーすー!!」

『ベネロペ・ラヴテイカー、アイザック・フォーサイス、両者脱落。速やかに業務に戻ってください』

「まったく、なにしてるんだか……」

 薔薇をわざと外すようにダニエルへと柔い水鉄砲を浴びせながら、デイジーは呆れたように呟いた。

「わ!ちょっと、待ってください!顔ばっかりはだめです!前が見えないですデイジーさん!」
「ほら、早く撃つか逃げないとやられちゃうわよ」

『デイジー・グッドゲーム脱落。ラウンジまで帰還を』

「へえ、このアナウンスだと本当に1人で来たのね。意外と正直ですこと」
「お客様には、嘘をつくなど致しませんので」

 スマホを片手に腕を組み背後の木に寄りかるクレアとショットガンを模したウォーターガンを構えるウズリフが、野鳥さえ鳴くのを躊躇うほど張り詰めた空気の中にこやかな表情でお互いの間合いを読みあっていた。

「じゃあ、勝ちを譲ってくださる?こんな取材し放題のチャンス、滅多に来ないんだから」

 クレアの申し出に丁重に礼をすると頭を垂れたままウズリフが答えた。

「申し訳ございません、本日は対等にゲームをするようにと仰せつかっておりますので……。手心があってはお客様に失礼かと」
「なら仕方ないわね。ところで、アナタこんな話知っている?」

 ウズリフの想定外に食い下がってくることなくあっけらかんと返すクレアに、微かに眉を顰め悟られぬよう無言で続きを促した。

「天気雨をイギリスではモンキーバースデーって呼ぶこともあるでしょ。それを日本では、狐の嫁入りって呼ぶらしいわ……アナタには、狐の方がお似合いだと思わない?」

 言うが早いか後ろ手に隠していた紐を強く引っ張ると、クレアの1mほど先ウズリフの頭上の枝が軋む音を立てバケツをひっくり返したような流水が赤い髪めがけて打ちつけてきた。

『クレア・ウィンストン様、ウズリフ・リヴィンスキー、両名脱落です』

「これは、油断していました……」

 水を吸って重くなった髪を絞るウズリフの笑顔に、クレアが非難するように転がってきたバケツを拾い残っていた水をかけ笑った。

「なにが油断していました、よ。隠し玉に気がついてるくせに喋らせてくれちゃって、バトラーじゃなくてガンマンでもなったらいかが?」
「まぐれですよ」
「まぐれで百発百中したら、この世はロビンフッドだらけよ」

 英雄とは普通の人より5分だけ、余計に長く勇敢にいられる人のことを言う。
 と申しますが、5分長く立つ者であるのならベルセルクとヘラクレスに一体どの様な差があるのでしょうね。




act 3




「皆さん、どんどんやられてますね……。この作戦で上手くいくでしょうか?」

 スノーは木の下でポツリと呟いた。

「いけんじゃねーの?暇ならぴょんぴょん跳ね回っておいでよ、ウサギちゃん」

 木の上から気怠げに降ってくる声と水滴に、スノーは木を見上げた。
 まさにチェシャ猫と言った風体で、コフィンがたっぷりと水を溜めた筆洗に顎を置き暇そうに指で水を弾き遠くを見ている。

「でも、少し意外です。ミスター・ドジャーはこう言うイベントを面倒臭がるタイプかと思っていました」
「ま、たまにはねん。すました奴らが餓鬼みたいになってンの見るのも笑えるじゃん」

 取り繕わない剥き出しの言葉に思わず苦笑を浮かべると、スノーは突然緊張したように自分の前に続く道をじっと見た。

「……誰か来るみたいです!作戦通り、僕は少し待ってから逃げます!どうか、ご無事で」

 スノーが小声でコフィンに向かって言うと、持参したウォーターガンをぎゅっと握りしめ前方を見つめた。

「……スキアーさん、もう少し開けたところに行きませんか。どこから人が出てくるか分からないですし……」
「だからです、お嬢様。その方が奇襲も迎撃も簡単で……お待ち下さい」

 何事か話しながら不安そうに辺りを見回すエレノアと周囲への警戒を怠らず、楽しそうにしているスキアーが脱兎のごとく走るスノーの後ろ姿を視界に捉えた。

「あちらはホワイト様ですね。お嬢様、折角です少し追ってみましょう」
「スキアーさん、なんだか楽しそうじゃありませんか?」
「はて?なんのことでしょう」

 促され渋々スノーの後を追うように歩き出した2人の頭上で、興味と悪戯心が湧いたように口角を上げたコフィンは筆洗を文字通り、ぶち撒けた。

「スキアーさん、危ないです!!」

『エレノア・ポートマン様、スキアー様脱落です。お足元に気をつけてお戻りください』

 咄嗟に庇おうとエレノアの全力を持って押しのけたのだが、スキアーはその場で多少バランスを崩すほどに留まり2人揃って木の上で枝にしなだれながらにやにやと笑うコフィンに全身ずぶ濡れにされた。

「申し訳ありません、お嬢様……。お側にいながら逆にお守り頂くなんて、従者としてお恥ずかしい」
「そんな、そんなことありません……!私も、スキアーさんを守れなかったですし……」
「いーじゃん、お揃いで夏浮かれちゃってますって感じで。もう一杯いっとく?」

 落ちてくる楽しさを隠しきれない声に、エレノアはキッと真上を睨みつけた。

「なに、オジョーサマったらプンプンして。もしかしてお優しーい従者ともっと水遊びしたかった?おこちゃまでちゅねー」
「ま……!大人げなく上から筆洗なんて掛けてくる人に言われたくありませんわ!正々堂々と降りてらっしゃいませ!」

 ぐっしょりと濡れたスキアーの手からエレノアは二丁のノズルを奪い、乾いた木肌に塗りたくるように水を大噴射した。

「おい、危ねぇって……!木の上にいるヤツにンなもん撃つ方が大人げねーだろ!!」
「知りません!!」
「hahahaお嬢様、高圧洗浄機は人に向けて撃ってはいけません」

 強く噴出する水はエレノアの細い腕では御しきれず、あっちやらこっちやらに強い水の飛沫が飛び散る。

「監督不行き届きだろ保護者!うっわ!!」

 辺りに水を撒き散らしながら上と下で言い合いをしているうちに、濡れた葉に足を滑らせたコフィンが木から筆洗ごと己の作った水溜りに落下してきた。

「きゃ……!」
「あっぶねー……王子様みたいじゃん、ファントムサマ」
「水が滴れば性根ごといい男になるか、試してみるか」

 上から降ってきた水を自分で被りながら、コフィンは下で受け止めたスキアーに更に水を浴びせられた。

『コフィン・ドジャー様、脱落です。タオルをご用意してお待ちしております』


 さて、これはそろそろ番狂わせが動き出しそうですね。
 ではこちらにどうぞ、少し海を見に参りましょうか。


 浜辺ではのんびりと散歩するように、藍のレースをあしらった菫色の日傘を差したナジーとベルントが優雅に歩いていた。

「まあ、皆様とても楽しそうですね。ベルント様はいかがですか?」

 どこからか響く放送を聞き楽しげに日傘をくるりと回し、ナジーは隣を歩くベルントに話しかけた。

「お腹が空きました……」
「では、ラウンジでなにか頂きに戻りましょうか。案内をよろしくお願い致しますね」

 大きな掌の上へ控えめに乗せられたナジーの指先をにこにこと眺めてから掴むと、先導するように砂浜を歩くベルントは日差しに輝き波立つ沖合を見て思わずお腹を擦った。

「お客様、とても大きな魚がいますよ」
「まあ、どれくらい大きいですか?」
「車より大きいです!」

 ナジーは驚いたような笑い声を上げると、頬を撫でていく潮風へと顔を向け繰り返す波音に心地良さそうにはためく髪を耳にかけた。

「そんなに大きなお魚でしたら、是非見てみたいですね」
「わかりました!取ってきます!」

 制止する声も空腹のベルントには届かず砂を蹴る足音が遠ざかり、潮騒とは違う一際大きな水音がナジーの耳に届いた。

『ナジー・シャンドリー様、申し訳ございませんが脱落とさせて頂きます。すぐにお迎えに上がりますので、少々お待ち下さい』

 海辺ラウンジからほど近い波打ち際。
 海から時折送られる強い風に灯火を攫われぬよう手で風除けをしながら、ヴェルナーはゲームが始まってから何本目かの煙草を取り出した。

「いいのか、ゲームに参加しなくて」

 潮の匂いに混ぜるように紫煙を細く燻らせ、ヴェルナーが赤毛を挟んで隣に座る同業者に問いかけた。

「愚問ですね、そちらもゲームのルールを理解して外野にいるのでは?」

 もう一服、吐き出すとヴェルナーが手首に巻かれた赤薔薇をひらひらと潮風に遊ばせた。

「薔薇を守り切った者が勝者であって、最後の1人とは一言も言っていない。つまり何人だろうが勝者だ」

 探偵の間に挟まれた赤毛が納得いかないように口を一文字に結び波に運ばれてきた貝殻を海に投げ戻すと、日差しにきらきらと泡が舞う夏を濃縮したようなサイダーの瓶を開けた。

「屁理屈、な気がするんだけど」
「効率がいいと言え」
「はぁ……僕は国が違えど探偵は皆こんな感じだなんて、知らなかったよ」

 エルロックはサングラスを頭の上に追いやると、ギャスパルが持ってきたアイスコーヒーのグラスを持ち上げた。
 
「そうだとしてもこんな目立つところにいるとか、狙ってくださいと言わんばかりじゃないか?」

 アイスコーヒーを一気に飲み干すとエルロックは鼻をふんと鳴らし、興味なさげに隣から投げられた疑問に答えた。

「隠れるに絶好の場所ほどハンティングにもってこいと言うわけだ、それこそ狙ってくださいと言うものだと思わないかね」

 砂浜に座り込み海を眺めながら小気味よく独特の応酬をギャスパルを挟み繰り広げていると、突然なんの前触れもなくエルロックがなにかを目指し波打ち際に一直線に走りしゃがみこんだ。

「エルロック!あぁ、もうなんなんだ」

 否が応でも慣れた探偵の突拍子もない挙動に小言を言いつつも後ろから追ってきたギャスパルに見えるよう、エル ロックは自分が手に持つ白い滑らかな石のようなものを放り投げ渡した。
 慌ててキャッチした両手をそっと開いたギャスパルは、訝しげな表情で視点を合わせるように眼鏡を指で軽く押し上げた。

「石……?いや、これは歯なのか?」
「ここは人工の海だったな」

 肩越しに覗き込みギャスパルの手の中を確認すると、ヴェルナーは沖合を睨むように呟いた。

「ああ、どういう理屈か分からないけど、これだけ財力のあるホテルだと海も作れる……のかな。わざわざ砂も海水も本当の海から運んできたらしい」

 エルロックは手に持つ白く滑らかな三角錐を光に翳し、手の上に乗せ、しげしげと眺めながらまるで自分に問いかけるように言葉を投げかけた。

「ふむ、ではこの海に生き物は?」
「えっと、釣りをしている宿泊客がいたから魚は確実にいる。甲殻類も見たな、クラゲも浮かんでた。君の隣に海藻とヒトデも打ち上げられてる」
「なるほどな、吸い上げたにしてはサイズが違いすぎる。悪趣味な故意か」

 ヴェルナーの苦々しげな声を背に、エルロックは興味が尽きたように白い三角錐を波に預けると立ち上がり両手を空に伸ばして準備運動を始めた。

「君達もしておき給え、逃げるには体が強張ってない方が良い。迎え撃つにも、無論」
「本気か、俺は専門外だぞ」

 主語の抜けたやり取りに、いよいよギャスパルが声を上げ割り入った

「なあ、逃げる?迎え撃つ?一体なんのことなんだ」
「さあギャスパル、夏と言えばなんだね」
「君さあ……はぁ、海、ホリデー……ラベンダー?」

 ギャスパルの言葉にヴェルナーが緩く首を横に振ると、煙草の箱をとんとんと揺すり新たな一本を取り出し数度目の火をつけた。

「夏、海」

 エルロックは犯人に突きつける時と同じ鋭さで海へと人差し指を向け、さも当然というように解答を口にした。

「サメだよ」

 ラウンジ近くパラソルの下でジュースのグラスを控えめに合わせ、2人はお互いの健闘を讃えるようにを乾杯をした。

「なんだか、僕達最後まで残っているみたい」
「はい、僕はデイジーさんが手加減をしてくれて……。スノー様お強いんですね」
「僕こそ走り回っていただけだよ。でも、作戦会議をしたりこんな広い場所で全力で遊ぶなんて初めてで、凄く楽しかった」
「ありがとうございます、そう言っていだけてほっとしました」

 スノーが膝の上に抱えていたグラスをもう一度、ダニエルの方に掲げ少し照れたように目尻を下げた。

「改めて、ありがとうダニエル」
「スノー様……僕達スタッフもお客様と全力で遊ばせて頂けて、とても楽しかったです!」

 先ほどよりも強いガラスの音を鳴らす2人の横で、てきぱきとアイザックがバーベキューコンロを設置していく。
 
「お二人ともすみません、近くで炭の準備を始めるので、よければあちらにお椅子をご用意させて頂きました」
「あっ、すみません!もう正午ですし僕もそちらに戻ります」

 慌てて立ち上がるダニエルの両手に、アイザックからたっぷりと氷の入ったピムスのグラスを持たされ、軽いウインクで押し返された。

「なにを仰いますか、ゲームが終わるまで勝者はゆっくりと寛いでいてくださいよ。ついでにコーデル様におかわりを届けてください」
「でも……じゃあ、少しそわそわしますけど……お言葉に甘えてもう少しリゾート気分で楽しみます!」

 スノーに一声かけるとダニエルは一礼をし、ラウンジで優雅にカクテルを傾けるコーデルへとグラスを運びに向かっていった。

「あの、ありがとうございます。気を遣って頂いて」

 ダニエルを見送ったスノーはランチの準備に取り掛かろうとするアイザックを呼び止めると、深くお辞儀をした。
 
「さあ、なんのことですか?俺達スタッフはお客様にお楽しみいただければ、それが心からの喜びですから。だからスノー様も目一杯、カサブランカの夏を楽しんでください」

 わざとらしくとぼけると、アイザックは礼を返し今度こそラウンジへと踵を返した。

「カサブランカの夏か……確かに、今までにない特別な夏だな。寮に戻ったら皆になにから話そう……」

 スノーはこれから迎える楽しい夏の日々に思いを馳せると、波打ち際にセットされた白いビーチチェアの傍らで手を振るダニエルへと駆け寄った。

「スノー様、冷たいフルーツティーはいかがですか?アイザックさんが用意してくれていたみたいです」

 2脚の椅子の間には白い丸テーブル、その上にはミニパラソルが飾られた典型的な夏のグラスが2つ置かれている。

「いい香りがするね、ミントとストロベリーとオレンジかな?うん、凄く美味しい!」
「正解です!お口にあってよかったです。まだおかわりもあるのでお申しつけください」

 スノーは片足を来る波に浸しぱしゃぱしゃと飛沫を上げると、まだ口につけられていないグラスを座らず背筋を正したままのダニエルに差し出した。

「君もまだ対等なんだから、足を波につけると気持ちいいよ。ほら、凄く大きな魚もいるみたい」

 グラスを受け取り、つられてダニエルも波間へと目を向けた。

「ありがとうございます。本当だ……随分と大きな、魚でしょうか?」
「もしかしたら、イルカとかいるの?」

 スピードを上げ岸辺へと向かってくる背びれにダニエルが困惑したように声を絞り出した。

「いえ……あんな大きな生き物がいるなんて聞いてません。でも、そんなB級映画みたいな……」
「以前友人が夏と言えばB級映画だって、似たような映画を見せてくれたことがあったんだ。ビーチでこんな感じの背びれで……ダニエル?」

 猛然と向かってくる黒い三角の背びれから目を離すことなく、少し怯えた様子でダニエルがスノーの手を掴んだ。

「失礼します、スノー様!あんな大きなものはこのカサブランカにはいません。理由は分からないけど、万が一ですので逃げましょう!」
「え、ええ?……わかった、君が言うならとりあえず逃げよう!」

 スノーが椅子から立ち上がるのを見届けると少し安堵したように息を吐き、ダニエルは数メートル離れた所に座るエルロック達を見た。

「はい、急いでラウンジに避難されてください!僕はホームズ様達にも伝えてきます!」
「うん、気をつけて」

 急かされるままラウンジへ残り僅かのところまで進み、思い出したようにスノーは先ほどまで座っていた場所を振り返った。

「いけない、貸されていたウォーターガンを忘れてきちゃった」

 後で取りに戻ればいい話なのだが、分かっていて貸されたものを放り出すのは居心地が悪い。スノーはざっと岸辺を眺めたが、先ほどの黒い三角形はどこにも見受けられない。

 数秒悩むようにダニエルと海を見比べると、今しがた来た足跡を辿るようにスノーは波打ち際へと走り出した。

「さあ、急いで戻らないと」

 椅子の上にぽつんと置き去りにされたウォーターガンを手に取ると、急いでスノーは海に背を向けた。

「これは……なにが……」

 今しがたスノーが背を向けた海に、得体の知れぬ存在感を放つなにかがいる。

 本来なら白亜の砂に映るはずだった自分のシルエットがなにか大きな影の中に飲まれていることに気がつき、言いようのない緊迫感に早鐘を打つ心臓を押さえスノーはゆっくりと後ろを向いた。

 振り返った視界いっぱいに飛び込んできたのは眩い太陽、それを反射する青い海。
 そして、獲物を噛み砕き噛み千切る為の悪夢のように羅列されたノコギリ状の歯。
 スノーの頭上に、死が大きな口を開け海から飛び出した黒い影となって落ちてくる。

「わ……」

 血相を変え飛んでこようと砂浜を踏みしめるヴェルナーの足元から、スローになったように白い砂の一粒一粒が見て取れる。

 スノーの開ききらない口の端から、咄嗟のことに悲鳴にもなれない息が溢れる。

「スノー様!!!」

 突然、スノーの右肩に今まで感じたことのないまるで強く殴られたような衝撃が走った。
 混乱した状況で振り被られた力に抗う術もなく、スノーの身体は重力に従うまま真横へと激しく突き飛ばされた。

 ゆっくりと流れていくスノーの視界に映ったものは、同じく混乱した表情でただ助けなければいけないの一心で先ほどまでスノーが立っていた覆いかぶさる血生臭い死の前に躍り出たダニエルの姿だった
 標的は変わったが本能の目的は変わらぬまま、黒い影は当然のように獲物の頭を鋭い歯の並ぶ大きな口に収めようとした。

 もう駄目だとダニエルが恐怖に目を瞑り、我に返ったスノーの悲痛な叫びがビーチに響く。
 遠くから惨劇を止めようと駆けてくるウズリフとアイザックの声がダニエルの耳に聞こえる。
 驚きの声や、息を呑む音が聞こえる。
 まだ、聞こえる。

「御方の白亜の砂上に、子羊の赤を一滴も落としてはいけません」

 不気味なほど落ち着き払った声が自分のすぐ目の前で聞こえ、思わずダニエルは固く閉ざした瞼を開けた。

 強く瞑り過ぎたせいで再び訪れた光に慣れない目に、逆光を浴びながら長い三つ編みを背に流す人物が幾度も大きなシャベルを振り下ろすのが見える。
 飛び散る赤い血がジェシカの首元を飾る赤薔薇に吸われ、白に変わるはずの薔薇がより一層濃く赤く染まっていく。

「ああ、とても生命力が強いんですね。煩わしくて嫌になります」

 尚も暴れ反撃する鮫とジェシカの間に斧の鋭い一閃が飛んできた。

「お客様随分とアグレッシブですね!どこでそんなシャベルを?」

 ラウンジから急いで持ってきた伐採用の斧で加勢に参上したアイザックが、鮫から目を離すことなくジェシカの隣に並び立った。

「あちらで畏れ多くもご令嬢と砂像作りをしていまして……」

 返り血よりも赤く染めた頬で後方を振り返るジェシカにつられ、アイザックも目を向けるとやたらとリアルなオーナーの胸像とスコップ片手に胸を張るフレデリカがいた。

「お父様よ!」
「ふむ、よくできていますね」
「……!!そんな、勿体ないお言葉です……。ご一緒させて頂くだけで、あの、この上ない……喜びです……」
「ちょ、後でです!後でにしてください!」

『皆様、有事です。ビーチにサメが出現し現在対応中ですので、お客様各位お気をつけてお過ごしください』

「はぁ?!サメって今時B級映画にも……いえ、毎年なっていますね」
「ス、スキアーさん!どうしましょう……!」
「お嬢様、トルネードに乗るものや砂を泳ぐものは映画の中だけですので、ここは大丈夫です。ご安心ください」

 ラウンジで寛いでいた者達も海辺での騒ぎを目の当たりにし大混乱の渦中、ナジーもなにか自分にできること、するべきことないかと唇に手を当て考え込んでいた。

「大変ですね、これはあまり宜しくありません……。あら……?」

 騒然とした場で次々耳に飛び込んでくる声、その中でナジーは一つだけ欠けた声があることに気がついた。

海の中まで届くでしょうか……」

 今までの人生で一番と言えるほど深く深くナジーは肺に空気を吸い込み、海へ声を張り上げた。

「ベルント様ー!!いらしてください!」

 喧騒の中、響くナジーの声に呼応するようにざばりと大きな音が波間を割った。

「お呼びですか!」
「良かった、お帰りなさいませベルント様。お戻りになったばかりですけど、私のお願いを聞いていただけますか?」

 ざぶざぶと海から上がるとベルントは抱えていた魚をぽいと離し、ナジーの前で笑顔で首を傾げた。

「なんでしょうか、お客様」
「あのサメを、止めてくださいますか?」

 悲鳴と怒号が飛び交う大乱闘が起きているであろう方向を指差し、今度はナジーが首を傾げ頭一つ分上を見つめた。

「勿論です!」



 そこからはまるでパニックホラーみたいな展開でした……。
 私が見た時にはビーチが真っ赤になってて……いえ、人間の血じゃなくて全部サメの血でした。
 はい、皆さんは無事でした。
 わ、私、ですか?その、見ていただけです。だってサメ怖いですし……。でも、人間が死なないサメ映画があるとしたら、サメを倒す人間の方が狂気的でやばいんだなって、その日初めて知りました。
 あっちも途中で齧られて、ちょっと引いてました。サメにも引くとか、あるんですね……。
 はい、はい……あ、その夜疑惑のフィッシュ&チップスが出ました。
 ビールに合って美味しかったのを、よく覚えています。

(BHCインタビューから一部抜粋)




「さて、皆様大変お騒がせをしてお詫びの言葉もございません。ですが、怪我人もなく無事に狩れましたこと、事態収拾にご協力頂き誠にありがとうございます」

 夏の定番サメ映画のような惨状になったビーチで仕切り直すようにオーナーが手を打ち鳴らし、嬉々として現場の所感をボイスレコーダーに録音するクレアと大満足でサメの部位分けをするベルントを除き疲弊し辟易としている聴衆の注目を集めた。

「思いがけぬ闖入者で遅くなりましたが、残りのリゾートもお楽しみいただけますようブランチにバーベキューをご用意致しました」
「失礼、少しよろしいでしょうか」

 オーナーの音頭を遮るようにエルロックが声を上げた。

「結局B級映画よろしくサメパニックに全員びしょ濡れになりましたが、こちらはどう決着するのかお聞かせ願いたい」

 エルロックが湿り気の残る前髪をかき上げてオーナーへと一歩詰めた。

「僕としてはこんなに事件に恵まれた場所にいつでも滞在できるのは、とても面白そうだと胸を躍らせていたのですが」
「有耶無耶にはなりましたがゲームはゲーム、全員例外なく脱落……ではありますが、サメだけにそれではあまりに興醒めと言うもの」

 なんとも名状し難い空気が流れた。
 その空気を断つようにデイジーが分かりやすく咳払いをすると、オーナーは微塵も意に介した様子もなく懐から一通の封筒を取り出した。

「こちらは招待状です。次のクリスマスに是非、皆様を改めてお招きしたく存じます。その時には、この夏に負けぬほどの特別な7日間をお約束しましょう……こちらで、此度はご容赦を頂けないでしょうか」

 翠の瞳を細め己の目の前に集う宿泊客、従業員を見渡すと有無を言わせぬ美しい笑みを称えオーナーはつけ加えた。

「さあ、アクシデントはありましたが夏はまだたっぷりとございます。どうぞ心ゆくまで、カサブランカでの夏をお楽しみください」





















薔薇色の人生
fin















✧ 



 ああ、そちらは大層お暑いらしい…… 
それはそれはお気の毒に。 
 お客様も、是非こちらのリゾートに 
お越しになられてはいかがですか? 
 あるはずのない夢の喜劇は、 
味わい深くまた格別と言うものですよ。 
  
さあ 
夏の夜の夢は瞬きよりも速く、
季節は再び巡りましょう。 

それでは、 
次は雪降るホテルカサブランカにて、 
またのお越しをお待ちしております。 






 当サイドストーリーは、John様主催の『衣装を誰がデザインしたか?Summer Resort CASABLANCA』の企画に、アル様が有志で物語を執筆してくださったものです。厚意に厚意が繋がったことで拝めたこの…暑い季節にうってつけの、サマーカサブランカという夢のような時間を皆様もお楽しみいただけたなら幸いです。カサブランカ主催として、本編以外でも思わぬ供給を得られた幸運に関係者各位へ感謝申し上げたい。ありがとうございます!(IQllより)


【シナリオ】

  執筆:アル

【イラスト】
  スノー:John
  ベネロペ:26兎
  スヴェン&ベッキー:心単

  デイジー:IQll



Special Thank You!