ジャンルも様々な本と資料の束が洪水のようになった部屋の中、机の上には使用意図の見えない模型と吸い殻がもうすぐ雪崩を起こしそうな灰皿が二つ。

 散らかった、と言うよりも散乱している、が正しい部屋で唯一安全圏のソファに男性と少年が並んでなにかを読み耽っている。

「これ、ライン川沿いだ。ただの誘拐じゃなくてローレライの見立てみたい」

 少年の言葉に同意するように男性が続けた。

「被害者が男性、死後口に注がれた水も自己主張なんだろう。この前のケルンも同一だと……」

 淡々と捲っていたファイルを適当な棚の上に置くと、紙を掻き分け床に広げた地図を辿るように伸ばされたヴェルナーの手がぴたりと止まった。

「……エア、今日は何曜日だ?」
「5日前が金曜だったから、今日は水曜日……」

 しまった、と言うようにそれぞれ読んでいたものから顔を上げて二人は目を見合わせた。

「10時にはおばさんが来る」

 時計の針は掃除や家事を週3回頼んでいる、実質この家の女主人が来訪する20分前を指している。

「父さんは急いで吸い殻捨てて。山は一つまでって先月怒られたばっかりだから、今日は大地が割れるかも」
「あー……エアは本を頼む、とりあえずできる限り女神の怒りを鎮めないといけなそうだ。すぐに戻る」

 ヴェルナーは灰皿を両手に持つと足早に部屋から消え、残されたエアは明らかに本棚より多い本を拾い集め棚という棚に詰めはじめた。


「無理だよ、これ物理法則をねじ曲げるかおばさんじゃないと本が収まらない」

 ものの数十秒で綺麗になった灰皿を持ち駆け足で戻ったヴェルナーを振り返ると、腰に手を当て不可解な顔をしてエアが首を振った。

「2人で探偵から物理の研究にでも転向するか」

 同じく不可解な表情を浮かべたヴェルナーも収まりきらない本や紙の束を拾い、置く場所もないテーブルの隅に心ばかり積上げ頷いた。

「もしくは天井から吊り下げる昇降式か、本棚にレールをつけて前後で動くように……これなら6割はいけるかも」
「屋根裏に余裕があるから、無理じゃないな」

 天井に穴を、エレベーターの仕組みで、交わす言葉の数に比例して本を集める手が自然と遅くなりやがて止まった。

 街の時計塔が10時を知らせる鐘と同時に、階下で来訪を知らせるドアベルが鳴った。





 瞬きのうちに場面は移り変わり、木と石で組まれた活気のある大通りをコートを着た男性と少年が二人してどこか項垂れたように並んで歩いている。

「おばさんに追い出されたね」
「掃除が終わるまで1時間くらいか、少し早いがランチにしよう。エア、なにが食べたい」

 暫し考えるように通りの店々の看板を眺めると、エアは緩く握った拳をヴェルナーに差し出した。

「思いつかないからさ、いつものにしようよ」

 柔らかく目元を綻ばせ、微かに口角を上げながらヴェルナーも応戦するように緩く拳を握った。

「シェーレシュタイン・パピーア! 今日は父さんの勝ちだから、次通りかかる右の店にしようよ」
「ああ、そこならシュニッツェルにするか。デザートはどうする?」
「じゃあ僕はパンフイッシュとアイス2……3段!」

 悩むように唸ったあと指を三本立て、子供らしい満面の笑顔を向け宣言するエアの頭に「身体冷やしすぎないようにな」と苦笑しながら、ヴェルナーが愛おしそうに手をそっと乗せる。

 二人の後ろ姿がゆっくりと、窓から溢れる暖かく淡い家々の光を眺めるように遠く、遠く、霞んでいく。







 紫煙が細く長く上がり、シャンデリアに届くこともなく空中で解け広がっていく。
 煙を吐き出すとヴェルナーは夢から覚めたように、穏やかに瞼を開けた。

「随分とやさぐれたマッチ売りの少女だな」

 まるで確かな記憶を揶揄する煌々とした眩い光と百合の香りに眉間を寄せると、己を皮肉るように吐き捨てた。

「マッチよりは長く素敵な夢を見れたのではないでしょうか」

 ヴェルナーの肩越しにかかるデイジーからの声に、持ち手まで灰に近い煙草を口元に運ぶと「違いない」と少し笑いもう一服、煙を天に向かって吐き出した。

「灰被りの妖精のおばあさん……いや、これだと失礼だな。最期に魔法使いのレディに会えてよかったよ」
「謙遜致します。私は、そんなに良いものではありません」
「悪人の瞳は嫌と言うほど覚えている俺からすれば、そこまで悪くない」

 今から命を奪おうとする相手に対して発される憎しみも怒りも滲まぬ言葉に、デイジーは表情を殺したまま俯き、重力のまま流れる金糸に隠すように瞳を伏せた。

「……手向けにもなりませんが、痛まぬようにします。では、お時間です。ヴェルナー様」

 ヴェルナーは静かに一度瞬きをすると、デイジーに残り数本が入っている煙草の箱を放って投げた。

「私は吸いませんよ」
「あんた、そんな毒を吸うみたいにして吸ってるここの空気よりはマシだろ」

 俯いたまま、デイジーは思わずキャッチしてしまった箱を見つめた。

「これも毒だとエアに言われたが……そんな毒でもないと、呼吸できない時もある。死にゆく者からの、お節介だ」

「……どうか、許さずにお眠りください」


 灰とともに小さな火種が堕ちて、大理石に黒い跡を作った。


2025,12/24. “ Good night Werner. ”
執筆:アル様