伝統と格式高いホテルの100周年に
幸運なお客様を迎えた特別な夜の幕が閉じました
これはその幕を開け、舞台を変えた
あったかもしれない幸せなお話
✧ Side Snow ✧
灰色の空から雪が降る。
吐く息は白く、トランクを握る手が悴む。
スノー・ウォータンドラスは瀟洒な白亜の館を前にして、その美しさに圧倒されていた。
「スノー、なにボーっと突っ立てんの」
「ここが僕が生まれる前に見た景色で名前を授かったところだと思うと……なんだか胸が」
後ろから肩に寄りかかってきた兄を振り返り、胸がいっぱいになったように言葉に詰まると高揚で仄かに赤くなった頬でスノーは嬉しそうに笑った。
「そんじゃあ中はもっとご立派で凄いんだからさ、ここで感動しきっちゃ勿体ないじゃん?」
冷たくなったスノーの指からトランクを奪うと、コフィンは恭しく胸元に手を添え大仰に腰を折り中へと促した。
「どーぞ、お入りくださいお坊ちゃま」
「さあ、スノーさんどうぞ進んで」
後ろから母親に優しく背を押されスノーは一歩、扉へと進む。
人懐っこい笑みを浮かべるドアマンがゆっくりと扉を開き、幸せな笑顔に包まれる家族を館内へと招き入れた。
「わぁ……!」
思わず漏れた自分の感嘆の声に、口を噤みすぐさま身を正した。
浮かれて子供のように振る舞ってはいけない。父のような紳士として正しく凛々しく振る舞わなければ。
「ひゅ〜♪こいつは確かに凄いねぇ」
「ははは、ここは変わらず素晴らしい趣だね。幾度訪れてもスノーのような気持ちになってしまうよ」
穏やかに微笑む父に照れくさそうなバツの悪そうな顔で笑顔を返すと、長い髪を二本の三つ編みでまとめたベルボーイが現れ流れるような所作でコフィン達から荷物を受け取った。
「ようこそ、ホテルカサブランカへ」
声がした方へ顔を向けると、白の燕尾服を上品に着こなした壮年の男が優雅な仕草でスノー達に向かって会釈をしている。
白亜の館に純白の紳士。完璧なシチュエーションはまるでお話に出てくる館の主のようだ。
スノーは圧倒的な雰囲気に少し気圧されながらも堂々と父に続き会釈を返した。
「ウォータンドラス様、お待ちしておりました。お久しぶりでございます」
「お久しぶりです、オーナー。今回は息子達も連れて家族でクリスマスを過ごそうと思いまして」
「ああ、それはとても良いホリデーですね。素敵な思い出の一助になりますようホテル一同饗させて頂きます」
数瞬、オーナーのエメラルドのような瞳がスノーを捉えた。
「?」
感情の読み取れない不思議な視線はすぐに外され、オーナーは何事もなかったように両親と談笑を続けている。
暫くの後、ベルボーイに案内されるまま古めかしい籠式エレベーターへと乗り3階へとのんびり上がっていく。
宿泊する部屋は夫婦と兄弟の一組づつが向かい合う形で用意をされていた。
「なんか食えない紳士って感じだったなー」
部屋に着くと大きなベットに腰を下ろし、仰向けに転がりながらコフィンがぼやいた。
「そうですね、優雅で大人の余裕があって」
「んー、そうじゃなくてなんか胡散臭いんだよね。ああいう顔で笑うやつ」
窓辺で荷解きをしながら話を聞いていたスノーは手を止め、ベットの上から視線を寄越すコフィンに向き直った。
「僕には素晴らしい紳士、と言うことしか……」
兄は緩く微笑むと困ったような笑顔を浮かべるスノーに歩み寄り、両手で顔と頭を揉みくちゃにするように撫で回した。
「ちょ、ちょっと……!兄様!」
「かわいいねー、おまえはそれでいいんだよ。まだまだ変なことなんか気にしないでさ、クリスマスいーっぱい楽しむんですよー」
「子供扱い……あは、あははっ!ずるい!擽りはずる、ふ、あはははは!」
暫く逃げようともがいていたスノーだが、笑い声が出ないよう口をきゅっと結ぶと反撃をするようにコフィンの脇腹に狙いを定め飛びつき、躱され逆に小脇に抱えられてしまう。
部屋からはじゃれ合う仲の良い年の離れた兄弟の笑い声が響いていた。
「はぁー……もう、兄様のせいで荷解き全然進まないじゃないですか」
「長く住むわけじゃないんだから、いいんじゃない?適当で」
トランクから出した衣服をクローゼットにしまいながら、変わらずベットの上で寛ぐコフィンへと小さな愚痴をこぼす。
「よくないですよ。ディナーの時に着るフォーマルが皺になっちゃいます。ほら、兄様のトランクも開けてください」
「はいはい……あ、そうだった」
面倒そうにベットから立ち上がるとコフィンは少し小さい自分のトランクを開け、スノーの小さな悲鳴をよそに一番スペースを取っているフォーマルの服をベッドに投げ捨て、底にしまっておいたスケッチ道具を手に取った。
「このホテルの話聞いた時に良いもんが見られるんじゃないかなー、ってね。スノーも一緒に行く?探検」
「もう、エレメンタリーじゃないんですから」
投げ捨てられた服を皺にならないように伸ばしながら、スノーは艷やかな木と金の細工が施された時計の針を確かめた。
「でも……ディナーまで時間もありますし、一緒に行きます」
トランクから取り出したまだ行場のない荷物を手渡しながら答えると、コフィンは観念したように受け取り渋々片付けへと重い腰を上げた。
コフィンはスケッチ道具、スノーは部屋においてあった館内案内図を片手に部屋を後にした。
まずは現在地の3階から見て回り、1階ずつエントランスに向かって降りていく。
どこを見ても一切の隙がなく、統一された調度品や漂う空気に格式の高さと流れる歴史を感じさせる。美しく飾られたクリスマスの飾りも完璧過ぎて非日常の空間に拍車をかけている。
だが、そのどれもが兄には響いていないようだ。
僕は廊下を歩くだけで、なんだか特別な気がして胸が躍るんだけどな。
スケッチに同行するたび、スノーは兄が興味を惹かれるというモチーフなるものは自分にはまだ難しくてよく分からないのだと痛感した。
お喋りや感想を言い合いながら、ゆっくりとフロアを下っていく。踏みしめる絨毯の感触もまるでふかふかの新雪のようだ。
「……期待外れだったかなー」
コフィンがつまらなそうに、一階へ向かう階段の手すりに頬杖をついて呟いた。スケッチブックは開かれることなくぷらぷらと揺れている。
「そうですか……でもまだ温室がありますから、行ってみませんか?」
手すりを挟んだ下から兄を見上げつつ、スノーは歩みを促した。コフィンは早々に飽きたようだが、スノーは歴史ある建物にすっかり探検モードだった。
だが、ここで一人になるのはやはり心許ない。半ば縋るように見詰めると、兄は曖昧に微笑んだ。
「ん、まあそういうならね。せっかくだし、行ってみよっか」
二人で階段を降りきると、エントランスの後方へと通り抜ける。その先には扉を飾るステンドガラスが見え、カラフルな明るい日差しが差し込む少し重たい温室の扉があった。
「このステンドガラスの色はまあまあかなー、趣味じゃないけど」
「もう、兄様ったら」
物色するように扉周辺を見始めた兄を宥めつつ、扉を開ける。
コフィンは何気なくそのまま進んだが、スノーの足は刹那その場に縫い付けられた。
「凄い……!」
清廉、豪奢、どんな言葉でなら相応しくこの光景を伝えられるのだろうか。
本で読んだアヴァロンがあるのならば、きっとこんな感じなのかもしれない。
ガラス張りの温室は外界の雪景色とは切り離されたように暖かく、色とりどりの花々がまるで美しさを競うように咲き誇っている。
ガゼボと呼ばれるポーチのような場所も、入り口から見てすぐに分かるほど素晴らしく整えられているのだ。
湖水地方にあるスノーの住む村でも見たことのない水中に揺蕩う白い小さな花から様々な色のウォーターリリーまで、水場にも美しい花が咲き誇っていた。
「これは、見事ですね!」
返事がない。
ふと隣が静かなことに気がつき、兄を見上げた。
兄は無表情、というには少し穏やかな顔で花の咲く水場をじっと見つめていた。
見たことのない眼差しに、なんだか邪魔をしてはいけない気がする。
だけど何故か急に兄が遠くにいるような、そんな不安にも駆られる。
「兄様……?どうかしましたか……?」
スノーはコフィンの袖を引き、声をかけた。
「ん……?ああ、ごめんごめん。なーんかスケッチする気なくなっちゃった」
兄の目がゆっくりと此岸に戻り、複雑な色味の瞳がスノーを映す。へらりとしたいつもの笑顔だが、意識はまだどこかに飛んでいるように見えた。
「あの、お身体……大丈夫ですか?どこか痛みますか?」
「身体?なんでそう思うの?」
不思議そうな顔をするコフィンだが、自身の変化には気づいていないようだ。
「だって、兄様……」
スノーは兄より一回り小さな白い手を伸ばした。
「さっきから胸元ずっと押さえてます」
胸元を押さえる左手にスノーの白い手が重ねられ、はっとしたようにコフィンは自分の右手を見た。
「は……?あー……もうスノーったら、そんな顔しなくてもどこもなにもないから大丈夫だって」
「兄様……」
「なんかよく分かんないし、カフェ行こっか」
なぜ自分が胸元を押さえていたのか、コフィンにもわからないらしい。
一瞬右手を伸ばされかけた気がしたが、問いかける前に兄はもう温室に背を向けていた。慌てて続きながら、スノーは一度だけ花が微かに揺れる水面を振り返った。
物言わぬ花々は、風もない温室の中で清然と佇んでいる。美しいが、人の手によって作られた景観は恐ろしいほどに隙がない。
完璧な庭園は、大きな一枚絵のようだった。
「スノー?行かないのー?」
「あ、待って兄様!」
すでに扉付近まで戻っていたコフィンの元へ、スノーは今度こそぱたぱたと走りついて行った。
兄と不思議な事があったのは、初日のその時まで。
あとはあっという間に過ぎていく本当に心から楽しい3日間だった。
クリスマスディナーもフォーマルではあったが、普段から両親に教わっている通りのテーブルマナーをこなすことができたので恥ずかしいところはなかったはずである。なにより今も鮮明に思い返せるほど特別な夜だった。
飲酒解禁となったコフィンが飲み過ぎて早々に潰れ、両親は珍しく夜中までバーで語らっていた。
スノーは料理に舌鼓を打ってばかりだったが、最後に出された可愛らしいミンスパイは特に気に入ってしまった。
表情に出ていたのか、給仕の女性がおかわりを持ってきてくれた時はコフィンにからかわれた。しかしそれでも食べてしまうような、何故か楽しい気分になってしまう美味しいミンスパイだったのだ。
トランクをベルボーイに預け、兄と過ごした部屋の扉を閉める。エントランスまでの道すがら思い返す楽しい記憶に、スノーは思わず小さな笑い声を零した。
「まあ、スノーさんは余程カサブランカが気に入ってしまったのね」
「私達の思い出のホテルでもあるから嬉しいね。コフィンは気に入ってくれたかな?」
嬉しそうな両親に問われ、兄はチェシャ猫のように唇を三日月に上げた。芝居がかった仕草で、おどけたように両手を広げる。
「そりゃもちろんですよ、おとーさまおかーさま。ここのワインとシャンパンは最高だったからね」
「はは、嗜む程度だと助かるんだけどね。さて、チェックアウトをしてくるから先に送迎馬車に乗っていてくれ」
父は受付に向かうと、そのままフロント係の女性に何言か楽しそうに話をしていた。
一方で母は兄に「お酒は程々にしなさい」と説教しつつ、エントランスの扉をすでに通り抜けようとしている。母に耳を引っ張られるようにしながら、コフィンも馬車へ乗り込んでいた。
「スノー?なにやってんの」
「あ、はい!すぐ行きます」
馬車から顔を出した兄に呼ばれ、スノーも駆け寄ろうとする。楽しい休暇は終わりだ。
しかし、その前にもう一度だけ一人でホテルの光景を目に焼きつけたかった。
白亜の城、特別な数日。楽しいクリスマス。
本当に素晴らしい経験だった。
「ご宿泊、誠にありがとうございました。此度はお楽しみいただけましたか?ホワイト様」
気がつくと初日と同じく、白い燕尾服を纏ったオーナーがいつの間にか近くに立ち優雅な仕草で会釈をしていた。陶然とホテルを見上げていたスノーに声をかけたらしい。
「……?僕はウォータンドラスですよ?」
ああ、とおかしそうに苦笑しながらオーナーが正面へと向き直りスノーと同じくホールを眺めながら独り言のように言葉を続けた。
「この猫箱の未来ではそうでした。失礼しましたウォータンドラス様、どうかお忘れを」
「はい……?」
猫箱?
首を傾げながらだったので斜めに頷いたスノーに、オーナーはうっすらと微笑んだ。手には両手に収まるほど小ぶりな白地に金でホテルの紋章が押された上等な箱が乗っており、つとそれをスノーへと差し出した。
「当ホテルのミンスパイをとてもお気に召していただけたようで、僅かばかりですが旅のお供にお持ちください」
「いえ、そんな!さ、さすがにいただけません……!」
思わぬ贈り物に、とっさに首を振ってしまう。泡食って拒否を示したスノーにオーナーは気を悪くした風もなく変わらず微笑みを浮かべた。
「コンフォートフード、という言葉はご存知ですか?」
「コンフォートフード……ですか?」
知らぬ事に少し居心地悪くスノーが「いいえ」と返すと、オーナーは品よく口を閉じている箱をゆっくりと開けた。
「コンフォートフードは故郷の味、口にすれば心が休まる、簡単に言ってしまえば懐かしい心の味というものです」
ミンスパイを受け止めている銀のレースペーパーごと一つをつまみ、スノーの前にかざすように取り出す。
「口にして思わず心を過るほど、あのたった一夜を楽しい思い出としてくださり、お客様を饗させていただくホテル冥利に尽きるというもの」
スノーは惹きつけられるような雰囲気に飲まれ、思わず差し出された一つを両手で受け取ってしまった。スパイスの効いた甘い匂いに記憶のなにかが刺激されるようだ。
「心ばかりですが、ホテルカサブランカからの贈り物です」
「ありがとう、ございます……」
「人があの時選んでいたら、もしくは選んでいなければ……選び手に残ったものを手繰り寄せ無数の選択肢の中、全てが優しい幸せを描いている道を歩くホワイト様」
幸せな家族を乗せ走る馬車が見えなくなるまで腰を折り、ホテルのオーナーとして丁寧に心から見送る。
「またのご宿泊をお待ちしております」
2025,02/02. Happy Birthday Snow!
執筆:アル
