伝統と格式高いホテルの100周年に
幸運なお客様を迎えた特別な夜の幕が閉じました

これは幕が開くよりも前
花咲き蜜蜂が踊る午後

薔薇は白く、スミレは昏い
音は色鮮やかに、そして彼女も

音と匂いが紡ぐ世界の、彼女だけが知るお話





 すみれ色の後れ毛が風に踊り、ナジーは足を止めた。
 自分の頬にそっと掌を寄せると薫風に届けられた淡い桃染めのシルクを摘み、感触を確かめるように指の腹で優しく撫でた。

「葉……いえ、花びらね。この甘い香りはピオニーかしら」

 後ろから吹いてきた風に指先を離し空へと向かう流れを見送ると、仕事道具が入った少々無骨な革のトランクケースを片手に、幾度となく通った友人の家へと続く小道を杖で先導しながらゆっくりと歩みを進めた。

「妖精からのビズを頂けるなんて、素敵な日に感謝しませんと」

 ナジーの軽く叩く杖先が柔らかな土から、コツリと硬く音を変えた。
 見えなくとも覚えている石畳のアプローチを数歩進み、杖を持ち替えると自分の目の前に立ちはだかっているであろう玄関扉へと手を伸ばした。

 扉の真ん中上辺りをなぞり冷たいドアノッカーに指が当たると、ナジーは重く冷たい真鍮の輪を引き数回打ち付けた。
 下げた手に杖を持ち直し家主の返事を待っているナジーの目の前で、古びた蝶番の音を伴い空気がうねり流れた。
 鼻をかすめる仄かなラベンダーの香り。

「こんにちは、あなたのお母様に承り調律に伺いました」

 そこにいるであろう子供の目線に近づくように少し腰を曲げ、ナジーは柔らかく声をかけた。
 小さな家主の返事の代わりにパタパタと逃げるような足音が遠のき、ラベンダーの香りがもう一度揺れた。

「まあまあもう、あの子ったら……いらっしゃい、お待ちしてましたよ」
「坊っちゃんに嫌われてしまったのかしら」
「あの子、母親が忙しいからって不貞腐れてるのよ。ごめんなさいね……祖母として、私が甘やかし過ぎたわ」

 少し悩むように逡巡した後、ナジーは杖先を地面から離した。

「ま、いやね玄関口で止めちゃって。娘はもう暫くしたら戻るから、先にピアノを見てやってちょうだいな」

 目の前からふわりと遠のく香りに招かれるように、ナジーは家の中へと足を進めた。

「お邪魔いたします」

 どこかで様子を伺っているであろう小さな家主に声をかけながら、玄関から真っ直ぐ廊下を進む。

 右側の壁にはボート遊びをする少女とアヒルの家族が描かれたブルーの飾り皿。
 あと5歩先にある踊るように腕を伸ばした大きなコート掛けにぶつかってしまうから、杖は左右に動かさないように。

「時々しか見に来られないから、掃除もできなくて。あなたの歩くところの物は避けてあるんだけど、行き届いてなくてお恥ずかしいわ。あら!そこのコート掛けの腕に気をつけ……ふふふ、そうね、分かってるわね」

 無邪気に鍵盤で遊んでいた頃から幾度となく訪れていた友人の家を、杖がなくても困らない程に慣れた足取りでナジーはピアノが置かれている音楽室へと向かった。

コンコン__

「大丈夫よ、今は孫しかいないからどうぞ入って。娘が戻るまでナジーさんに面倒までお願いしちゃったのに、あの子ご挨拶もしないでどこに隠れちゃったのかしら……。ナニーにまでトラップを仕掛けたり悪戯ばっかりして本当にもう、って……あらやだ、まだ左の取っ手が直ってないのよ」
「ふふ、右の取っ手を回すのも音楽室の匂いも変わらなくて……懐かしい」

 流れ込んできた空気に舞った細かな塵が、窓から低く差し込むオレンジ色の陽光に反射してきらめいている。
 壁一面に備え付けられた本棚に並ぶ、古い楽譜の列。
昔よりほんの少し掃除が行き届いていない埃の匂い。楽しい情景の詰まった空間にナジーは思わず杖を抱えて数歩、歩み微笑んだ。

「小さい頃娘とピアノで遊んでたものねぇ。それが今ではナジーさんは調律師、娘はピアニストだなんて、時間が経つのは本当に早いわ。それは、私も年を取るはずよ」

 毛足は短いが厚手で柔らかな、ナジーの知ってる頃から毎回同じ色に張り替えられる絨毯につま先を沈め、楽しげにピアノへくるりと体の向きを変えた。

「きっと絨毯は赤い茶色、ですわね」
「ええ、勿論。我が家の音楽室は100年、200年前からよく熟成されたスコッチより薄い茶色の絨毯を敷くなって決まりがありますからね。まあまあ!私ったらお茶も出さないで!ちょっと失礼するわね」

 ナジーを包むように薄く香っていたラベンダーが、ベールを外すように香りが引いていった。

「よくこのピアノの下に2人で寝転んで、おばあ様に叱られて。あら?これは……」

 懐かしさを辿るようにピアノに沿わせた手がベッタリとした異質なものにぶつかり、ナジーは不思議そうに自分の指先を擦り合わせた。

「クレヨン……?」

 指でもう一度同じ箇所、ピアノの側面をなぞれば塗りつけられた蝋はモロモロと崩れ、何色かがこびりついたような感覚が指に乗っている。

「もしかして、ピアノの不調も……っ!」

 突然大きな音を立てて先ほど通った扉が、力任せに閉まる音が響いた。

キィィキィィィ__

 続いて金属を引っ掻くような不愉快な音が数回鳴り、割れそうな程ガラスを強く叩く音がナジーと向かい合った窓から、脅かすように鳴っている。
 大きな音に一瞬肩を跳ね上げはしたが、合点がいったように微笑むとナジーはわざとらしく咳払いをし、両手を腰に当てけたたましい窓に向かって声をかけた。

 この音に不釣り合いな、だがらしいとも言えるキャンディのような匂いが、騒がしい空気に乗ってほわりと香っている。

「あらあら、そんな事をしてはダメ、可愛いゴーストさん。ちっとも怖くないんですもの」
「……なんで」

 不快な音が止み、向かい合った先から様子を伺うように不貞腐れた呟きが返ってきた。
 お手本のようにぶっきらぼうな声色を聞き、思わず笑い声を溢したナジーに観念したように渋々と甘い香りが近寄ってくる。
 ナジーはゆっくりと手を伸ばし、母親と同じと聞いている亜麻色の和毛を優しく撫でた。

「こんちには、ゴーストさん。ピアノに悪戯をして歌えないようにしていたのは、あなたね?坊っちゃん」
「ママに言うんでしょ」

 足元に投げかけられた声は、ただ悪戯を楽しんでしていたのではないと大人が察するに十分な寂しさを孕んでいて、合わぬ目線が合うようにナジーは床に腰を落とした。

「いいえ。おばあさまがお空に行かれてお母様も忙しくて、一人でよく頑張っていますね。そんなとても偉い子を、決して叱ったりは致しません」

 服の裾をぎゅと握りしめている小さな手を探しあて強張りを解くように両手で柔らかく包むと、つっかえながらぽつりぽつりと言葉が紡がれていく。

「……おばあちゃんがいい」
「ええ、私もおばあさまに会いたいです。チョコチップクッキーがとてもお上手でした」
「ジャムサンドビスケットの方が美味しかった」
「あら、それは私も頂いたことがありません。あなたのために覚えられた、素敵なお味ですね」
「ナニーは紅茶にコショウいれるんだよ」
「それは困ってしまいますね」
「ママ……いつも仕事」
「きっとお母様もあなたといたいけれど、忙しくて困っていますわ。ねえ?よろしければ私とお友達になってくださいませんか?」

 繋いだままお喋りを続けていた両手を、ナジーが空中でぽんぽんと宥めるように緩く振った。

「なんで?」
「そうしたら、お母様がいない時は私がこちらに遊びに来たり、あなたが私のお家に遊びに来たり。今より少しだけ寂しいが減ると思いませんか?」
「紅茶にコショウいれる?」
「いいえ、でも今度どんな味がするのか試してみましょうか」
「えへへ、おばあちゃん怒りそう」
「ふふ……ええ、おばあさまに怒られてしまいますね」

 お互いの思い出の中にある心当たりに吹き出してしまった2人を見守り佇むように、優しくラベンダーが香った。

「なんてこと、紅茶に変なものもジャムもいれてはいけませんよ。まあまあそれにしても、こんなに笑って……ありがとうナジーさん」

 徐々に薄れていく懐かしい香りを見送るように、ナジーが傍らを見上げ静かに微笑んだ。

「ああ、ナジーさん……貴女、どうか」


__白い丘に気をつけて

2025,12/13. “ Happy Birthday Najee! ”
執筆:アル