気がつけば白く掻き消される吹雪の中、吹き荒れる雪よりも白く美しい建物の前に立っていた。

 全体はこの視界で見ることは叶わないが、両開きの扉に嵌められた硝子越しにホテルのロビーのような構えが見える。
 立ち尽くしているポーチから数歩後ろに下がり雪に全身を飲まれながらなんとか頭を反らすと、品のある金の看板のような物が雪光を反射して輝いている。

HOTEL CASABLANCA

 なのだろうか、よく目を凝らそうとするが少し身を晒しただけで鼻まで痛くなるような凍てつく風にとても耐えられない。

 本当に身体の芯まで凍らせるようだ。
 思わず暖かさを求めて氷が張り付いたように強張り感覚の鈍くなった指を、目の前の良く磨かた金のドアノブに伸ばした。

 指が触れるか触れないかのところで、客人を出迎えるかのように静かに大きな両開きの扉が開いた。




__さあさあ、お待ちしておりました。
 ようこそお越しくださいました、お客様。

 どうかされましたか?

 ああ、どうぞご安心を。
 長らくお客様のチェックインを、ホテル一同心待ちにしていました。

 さて、今宵はお客様ただ一人だけの貸切。
 こんな機会もあまりない、よろしければ私が当ホテルをエスコートさせていただきましょう。

 荷物は彼に、チェックインは彼女が済ませています。

 ではまず、当ホテルの顔とも言えるエントランスホールから参りましょう。
 白を基調に格式を忘れず、歴史を色褪せさせず今を取り込みむことで、まるで留められた時を過ごすよう。そんな体験をお客様に感じていただければ幸いです。
 人間の紡ぎ出した言の葉で温故知新、とでも言うのでしたかね。

 手を失礼……。
 こちらは私からお客様へのウェルカムフラワー、お受け取りください。
 赤い薔薇が、このホテルの白に映えてよくお似合いです。

 このままエレベーターに乗って部屋に向かうのも良いですが、外はこの雪でさぞ冷えたでしょう。
 広間に茶の用意をさせています、それまで温室で花を眺めるのは?
 ……それはよかった。

 この赤い薔薇も温室で手入れをしているのを手折ったもの、他にも貴方を喜ばそうと草花達がニンフのように咲き競っているはずだ。
 さあ、そのステンドグラスの扉を、どうぞ。

 こちらは当ホテルでもお客様からご好評の自慢の温室です。

 この温室全体を覆う硝子の半球、ここからならばスノードームを眺めるように吹雪も美しく引き立てられる。
 地上に目を向ければ今度はテラリウムのように、国内外から取り寄せた美しい花達をガーデナーが見事に彩ってくれていますね。

 お客様やホテルのスタッフが時折花で恋占いなどして、まるで秘密の花園のようで微笑ましい限りです。

 手ずから散らす花ではないですが、乙女達の記憶に美しく舞うのならば花も本望かと思い、スタッフにも咎めはしていないのでね。

 ああ……ですが、花弁を散らすなら大地ではなく水面に散らせば想いも、見目も揺蕩うように麗しく尚良い。

そうは思いませんか?



「失礼致します」

 赤毛の男が温室の入口から深く一礼をし、柔和な微笑みを浮かべている。
 ホテルのスタッフなのだろう。礼をしただけなのに流れるような慇懃な所作が、まるで小説に出てくる執事のようだ。



 お待たせを、用意ができたので参りましょうか。
 お手をこちらに、うっかり噴水に落ちたら水に飲まれてしまうかも知れない。



 背にした花園から密やかな話し声が聞こえた気がして、咄嗟に振り返ってしまった。
 視界に映ったのは跳ねた水と噴水の縁から一粒、転がって落ちた赤い小さな実だけだった。
 前に向き直ると、いつの間にか散らされていた黄色い花弁を辿るようにオーナーの後に続いた。



 ラウンジでも良いのですが、お客様一人だけの為のホテルです。
 今日は広間も、全てが貴方をもてなす様張り切って着飾ったようだ。



 天井から大きく波打つように飾られた赤と緑の光沢のあるリボンが、エントランスホールから続く大きな扉を開いた風で歓迎するように揺れている。
 壁には緑の香りがする常緑樹が白いリボンで束ねられたリースが等間隔で並んでいる。

 広い部屋の中央には、ポツリと一組だけ置かれた丸テーブルの上に白磁に金でカサブランカが絵付けされたティーセットが二人分用意されている。



 クリスマスのミンスパイは人と囲む方が楽しいと、思いまして。
 私がお相手でもよろしいでしょうか?

 それは僥倖。
 では、一時の茶会を楽しみましょう。



 ミルクティー色の髪をお団子に纏めたメイドのような女性が、金のスリーティアーズをテーブルの真ん中に置いた。
 下の段からローストチキンのサンド、スコーン、可愛らしいミンスパイが乗せられている。
 女性が今度はポットを手に取り、琥珀色の紅茶を注ぎ花が綻ぶように微笑んだ。
 一口、カップを傾けると凍えていた身体の芯から温まるように紅茶とブランデーの甘い香りが通り抜けていった。



 すっかり身体も暖まったようで、なにより。
 外は変わらぬ空模様だ、室内で過ごせるよう当ホテルに合う可愛らしい童話でも用意させておきます。
 白銀の森を散策するのもいいですが、この吹雪ではその身が凍るのが先でしょう。

 では、そろそろお部屋にご案内を。
 エレベーターはこちらです。



 椅子を引いて立ち上がった自分の足が、深い赤の絨毯の上に乗っている事に初めて気がついた。
 大理石の乳白色と絨毯の深紅が描く美しいコントラストから目線を上げると、オーナーが手招くように血の気がない白い手を差し出している。
 向けられた指先に自分の掌を預け案内されるまま、広間を後にした。



 当ホテルのエレベーターは些か歳を重ねたもので、このように少々穏やかで時間がかかるのですよ。
 ですが、それも味。
 その時間に感じる歴史が良く、利便性ではない魅力がある。
 エレベーターが到着してから籠扉を開ける、その一手間も愛しいものです。

 未だにこのスタイルを続けている建物も国内には残っていますね……もう到着したようだ、籠扉は私が。
 それでは、うっかり奈落に滑り落ちないよう足元にご注意を。

 ……お部屋はこちらです、鍵をお渡ししましょう。
 古めかしいお話にでてくるような、仰々しい鍵でしょう。

 さあ、貴方の部屋をどうぞご自身で開けてください。

 なにか不自由があれば先程給仕をしていたスタッフが伺います。
 ああ、そちらにあるピアノはご自由に。
 私は聞く専門ですが、時折お客様が弾かれるので歌声が乱れぬよう調律もしてあります。
 以前はピアニストがいたのですが、今はピアノも暇をしています。気が向いたら遊んでやっていただきたい。

 さて、名残惜しいですがいつまでも私がいてはお客様の気が休まらない。
 それでは、ディナーの席でお待ちしています。

 それまでどうぞ、ごゆっくり。



 閉まる扉の音を背に、ゆっくりと部屋を見回すとローテーブルにはポーンが一つ前に出たチェス盤が置かれている。
 不思議に思いながら部屋の奥へと進むと、猛吹雪で薄く霜が張った窓が風で微かに音を立てている。
 鼻先がつくほど窓に近づいてもなにも見えないが、方角的に裏庭なのだろうか。

 ふと、真っ白の中になにかオレンジ色のようなものが揺らめいたように見えた。
 目を凝らすうちに、オレンジの揺らめきはホワイトアウトに消えていき二度と現れなかった。

 窓から離れベットに腰掛けると、壁に飾られた現代アートや仮面が目に入った。
 デスクの上にはなにかの球根が赤い硝子ボールに満たされた水の上に飾られている。
 変わったインテリアに興味を惹かれ、室内を探索していたらいつの間に日が暮れたのか、赤毛の執事がディナーの迎えに来ていた。



 またお会いできて嬉しい限り。

 今宵はクリスマスディナーに興じましょう。
 シャンパンはいかがですか?よろしい、では乾杯を。

 お部屋では寛げたでしょうか。
 景色は楽しめなくとも、日常生活とかけ離れた時間と空間をお楽しみいただけていたのなら良いのですが。


 食事をご満足頂けたようで、なにより。
 ミンスパイは先程お出ししたので、定番ですがクリスマスプディングを用意しています。
 クリスマスプディングは寝かせれば寝かせるほどいい、と仕込みの時間を長く取る。
 去年のクリスマスの後からたっぷりと時間をかけて、本日お客様のために仕込んであります。

 一切れ、お取りしよう。

 おやおやこれは、お客様を差し置いて幸運のフェーブは私の皿に来てしまったようだ。
 では、プディングに代わりに私から幸運を貴方に。



 大きなツリーに飾られたオーナメントが、シャンデリアに灯る蝋燭の火に照らされ幻想的に煌めいている。
 純白の服を纏い完璧な微笑みを浮かべるオーナーと、自分以外誰も席に着いていない広いテーブル。
 頭上から王冠のように吊り下げられた光源は部屋の隅までは届かないようで、部屋の中心から円の外へは暗く影を落としている。
 出会ったスタッフ達が燭台を手に、厳かに口を閉ざし光りの届かない壁際に控えているのが、ぼんやり灯火に浮かび上がって見える。

 それなのに。
 この場にいる者以外の人達の笑い声や話し声、皿に乗っていないはずの料理や香水の香りが、消えていくように一瞬だけ鼻をかすめる。
 静かなホールなのに賑やかさがあるような、隅の暗がりの中でまるで動いたように影が膨らんだ気がした。



 失礼……少しシャンパンを注ぎ過ぎたようです。
 楽しいものもその身に過ぎれば毒になる。
 些かその身には、多かったようだ。

 水を、少し気分は落ち着きましたか。
 よかった、では夜の更ける前に部屋まで送らせましょう。
 寝る前には酔いも幾分冷めるはず。






 なにか地に足のついていないような心地で、部屋に辿り着きいつの間に眠っていたのだろうか。

 寝苦しくもないのに、ふと暗い部屋の中で目を覚ました。
 窓からの寒さを防ぐ厚いカーテンから僅かに漏れる雪光、真っ暗な部屋の中に差し込む明かりと呼ぶには乏しい白をベッドの中からただ眺める。
 急に、ベットの縁が一人分、人が腰掛けたように沈んだ。
 誰かが、ここに座っている。




 さあ、お客様__

 時を戻し進めたある日、在りし日。
 あり得たかもしれない、そしてあり得ない。

 千夜一夜に紡いだ夢は、お客様のお口に合いましたか。


 ここはホテル。
 ホテルカサブランカ。

 一時の滞在をする場所でございます。
 永久にその身を留められる場所ではない。
 そして、どのような旅にも必ず幕引きが訪れる。

 さあ、もうじき千と一の夜を越える。

 名残惜しいですがお客様、もうお時間のようです。
 どうぞ、愛しく芳しい夢々からお目覚めを。









ホテルカサブランカ
伝統と格式高いホテルの100周年に
幸運なお客様を迎えた特別な夜の幕が閉じました。

再びその幕を開き、降りた役者を舞台に戻したカーテンコールもこれにて終幕です。

千夜一夜、
特別なお客様方と素敵なキャスト達のお話。

それでは、チェックアウトのお時間です。




またのご宿泊を、
ホテル一同心よりお待ちしております。

__幸運なお客様