伝統と格式高いホテルの100周年に
幸運なお客様を迎えた特別な夜の幕が閉じました
これはその幕を開け、ほんの少し舞台を巻き戻した

千夜一夜、特別なお客様と素敵なキャストの幕間のお話

✧ Side Jessica ✧


 
 賑やかなクリスマスディナーもお開きになり、バーで飲み直す者や部屋に戻る者、ラウンジで談笑を続ける者、各々が好きに動く中ジェシカは自分の割り当てられた客室へと静かにそうっと帰ることにした。

 料理はとても美味しく楽しい場ではあったと思うが、賑やかすぎるのは得意ではないし普段の倍話しかけられて疲れてしまった。
 なによりあの方の目に自分が映ることへの緊張感。
 よく磨き上げられた古めかしい部屋の扉を後ろ手に閉めると、今まで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたようでそのまま扉に背を預け無意識に深く息を吐き出していた。

ああ、この静けさ。この館の主たる彼が纏う空気がホテルに、この部屋に、確かに漂っている。
 
 美しい死の静けさ。誰にも邪魔をされない冷たく穏やかな眠り。
 だけど、今のホテルは命の喧騒で満ちてしまっている……。早く、早く完璧にしなければ。

「あの方に喜んでもらえるように……たくさん頑張らないと」

 ジェシカは胸の前で両手を固く握りしめ、頑張るぞ、と気合いを入れるように呟くと明日からの尊い行いに備えて身支度を整えるため荷物を置いているベッドサイドへ数歩足を進め、異変に思わず歩みを止めた。
 先程は押し寄せる緊張からの疲れで気がつかなかったが、ベットに近づくたび甘い香り漂ってくる。

 嗅ぎ慣れた僕の好きな香りだ。

 瞼をゆっくりと閉じ深く息を吸い込むと、林檎の芳醇な香りが鼻腔を抜け肺に落ちていく。
 オイルランプと仄かに灯る蝋燭の淡い明かりの中、そのまま両手を組み祈るように一步、一步、歩みを進める。膝に柔らかい感触を覚え閉じた瞼を開けると、まるで蜜月を歓迎するように白い林檎の花弁が可愛らしくベッドの上に散らしてある。

 それだけではなく、サイドテーブルの上には銀とガラスで組み上げられたボンボニエールにジェシカの好きな林檎のキャンディが山積みになっている。その横には白地に金の花が絵付けされたカップに揺蕩う紅茶が、まるで今しがた淹れたばかりのように湯気と林檎の香りをのぼらせている。

「…………っ!」

 あまりの感激に感嘆の声も深い感謝と尊崇の言葉も、喉と胸を締めつけ発することができない。

こんなにも、崇敬しているあの方が僕のためだけに……こんなにも手を尽くし僕のことを考え、歓迎をしてくださっている……。

 あまりの歓びと感動に身体が震えるのが分かる。
僕はもっともっと捧げなければ、僕の一生を持っても返しきれないけど、それでも頂いた愛を少しでもお返ししなければ。
 慈しむようにベッドを撫でジェシカはその身を静かに沈めた。

「あの方の匂いだ……」

 横顔を埋めた柔らかな枕からは微かに、ジェシカが心酔する者が身に纏うパルファムが香った。
 そう言えば、あの赤い封蝋はあの方が直々に押したのだろうか……。もしそうであれば、紙は朽ちぬようにインクは褪せぬように防腐処理をしてガラスケースに入れて丁重に保存しなければ。

 時計の針がカチコチと進む音とジェシカの身動ぐ衣の音だけが静かな部屋に微かに響く。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。
 そんなことを考えながら至福の香りに包まれぼんやりとしていると、不意に客室の扉がノックされた。

「ひゃいっ……!」

 「はい」と発声したつもりだったが、完全にリラックスしていたところへの突然走った緊張で声が掠れて裏返ってしまった。
 名残惜しくベッドから降り急ぎ来客の鳴らす扉へと向かい、恐る恐る少しだけ開けた隙間から顔を出す。そこには、到着後すぐにフロアのバトラーとして挨拶に来た赤毛の執事が柔和な笑みを浮かべて立っていた。

確か……名前はなんだったろうか……。

「は、はいぃ……」

 赤毛の執事はにこりと微笑むと流れるような所作で頭を下げた。

「ジェシカ・ネクロ様、オーナーがお呼びです」
「!!!……す、すぐに、すぐに仕度しますっ!」

 執事がこちらでお待ちしますと微笑むとジェシカは返事もそこそこに大慌てで客室の扉を閉めた。

「どうしよう、なにか変じゃ、鏡!鏡!」

 粗相の無いように。
 あの方の足元と言うのも烏滸がましいほど遠く及ばないけど、少しでも身嗜みを整えて。埃をつけてあの方の前に出るわけには……ああ、でもあの方のホテルなのだから埃なんてあるはずがない。いけない、なんて失礼なことを考えてしまったのだろう。

 洗面室に備え付けられた曇り一つない鏡を見つめる。
高揚した頬と歓びと緊張に輝き惑う瞳、ベットに横になっていたから少しよれてしまった服、ぽさついた三つ編みの自分が映っている。

あの方の元に呼んでいただけるなら隣にいた理髪師の人に髪を、えっと、トリートメント……してもらうのもよかったかも……。
でもあの方の前では全てが些末に霞んでしまうし、褒めてもらったこの髪も触れてもらった自分自身も、他の人間には少しも触らせたくないし……。

「少しだけ、ブラシをしてから伺おうかな……」

 太陽の光り差す昼とは住まう者の違う、月も叢雲に姿を隠した暗い夜の廊下は少し不気味に見える。
 もう宿泊客は寝静まっている時間なのであろう。壁の明かりは絞られており、前を歩く執事が持つ燭台の灯りが仄かに周囲を照らす。
 誰の寝息一つ聞こえてこない静寂を破るように古めかしい音を立ててゆっくりと開くエレベーターに乗り込み、通常の宿泊客は立ち入れない4階へとジェシカは足を踏み入れた。

 上に白百合のレリーフが飾られた重厚な書斎の前まで来ると、ジェシカの心臓はここに来て一番の早鐘でうるさく鳴りだした。
 執事が厳かにノックを3度鳴らし、真鍮に花と蛇の彫り物が施されたドアノブをゆっくりと回す。ジェシカを招くために、執事の手によってまるで王国の謁見室のように扉が恭しく開かれた。

「ジェシカ様、ようこそお越しくださいました。本来、このような場へお客様の足を運んでいただくなどあり得ないことなのですが……無礼をお許しいただけると幸いです」

 白い燕尾服の男性は優雅に微笑むと非礼を詫び、胸元に手を添えお辞儀をしジェシカを迎え入れた。

「そ、そんな……!無礼だなんて!」

 ジェシカは自分が思うよりも口から飛び出た大きな声に慌てて両手で口を覆い、改めて感謝を伝える為に精一杯姿勢を正した。

「あっ……あの、貴方に呼んで頂けるとは、思ってなくて……えと、嬉しい、です」
「それは良かった。さあ、そこのソファにお掛けください……ああ、そうだ」

 真紅の絨毯の上に大理石のローテーブルを挟んで並ぶ質の良いソファの片方に腰を掛けながらオーナーは自分の正面のソファを手で促し、思い出したように執事を呼んだ。

「評判のいいシードルを取り寄せてありますが……いかがですか?」
「ひゃ、はい……。是非、頂きます……!」

 数分後、会釈をし下がった執事が繊細なカッティングをされたクリスタルのゴブレットとよく冷えたシードルの瓶を乗せた銀の盆を手に現れた。
 執事は音を立てずにコルクを抜くと、美しいグラスに黄金色の林檎酒が繊細な泡を立て注がれていく。
 泡がキラキラと舞うのを見ながらジェシカは目の前の男性をつい盗み見た。

 陶肌のような白く滑らかで血の気のない肌。
 艷やかな絹糸のような美しい白髪。
 伏せるとまるでヴェールのような白く長い睫毛から覗くエメラルドの瞳は、どんな宝石を集めても敵わないほど美しい。

「……っ!」

 盗み見ていることなどお見通しなのだろう。
ふいにエメラルドに見据えられまるで永遠に時が止まったかのように、ジェシカは呼吸の仕方を忘れてしまった。

「……以前お会いした時より随分と髪が長くなったようですね」

 オーナーが目を逸らし小さく笑うと、まるで呼吸を許されたようにジェシカの肺は急いで空気を取り込みだした。
 思わず咽せジェシカは慌てて視線を落とし、再び泡の舞うグラスに目を向けた。

「あ……の、伸びたかも、しれないです……ずっと切らないようにしていて。子供の頃に、貴方に褒めてもらってから……ずっと」
「私に褒められたから伸ばしていると?……ふふ、可愛らしい人だ」

 「可愛らしい」と言う言葉に、身体が勝手に顔に熱を集めてしまっているのが分かる。
 熱を誤魔化すように差し出されたグラスに手を伸ばし、冷たい林檎酒を喉に流す。強過ぎないアルコールに濃く溶けこんだ甘い林檎の味がしゅわしゅわと舌を包みこむ。

「いかがでしょう、お口には合いますか?」

 林檎酒よりも甘い、オーナーの優しい声が耳に心地良く流れてくる。

「はい……とても美味しい、です」
「お気に召されたのならそれはなにより。さあ……夜は長い、チェスでもしながら話をしましょうか」
「はい……」

 ジェシカは収まらぬ熱で顔を赤らめながら、こくりと頷いた。

 こと、ことり。
 カチ……カチ……。

 木製のチェスボードに木彫りの白と黒の駒が駆ける音と、豪奢な飾りと細工が施された歴史を感じる大きな古時計が時を刻む音が二人だけの部屋に響いている。
 チェスは彼が嗜むと聞いて子供の頃から祖父に教わり、もしも遊戯に誘われた時には退屈させないようにと練習をしてきたつもりだった。だが、いざ目の前にすると駒を持つ手が震えてしまう。
 とても自分の腕では暇潰しにもならないほどの差があるのも分かる。このゲームでも、そろそろ自分のキングの息は続かないだろう。
 それに、最中彼がいくつか話題を振ってくれたのだが、気の利いた返事ができなかったこともとても悔やまれる。
 どうしても、彼を前にすると頭が上手く働かず見蕩れて上の空になってしまい、強いアルコールに酔ったように言葉も紡げなくなってしまう。

ぼうっとした意識と心では、相槌を打つのが精一杯だ……。
もっと彼に伝えたいことも、話したいことも山ほどあるのに……。

 彼にジェシカと呼びかけてもらえれば。
 その心地よい声が耳朶から流れてくれば。
 その翡翠の瞳に己を映し、認められるだけで、他のことは全部どうでもよくなってしまう。

「明日は晴れるそうですよ」

ああ、そうだった。明日から、いよいよ始まるんだ。

 たくさん上手に生贄を捧げられたら、彼は褒めてくれるだろうか。

「早朝にはダイヤモンドダストが見られるのだとか」

 褒めてくれたこの髪を、頭を、偉いですねと撫でてくれるだろうか。

「折角です、早起きをするのも良いかも知れませんね」

 大きな、たくさんの見返りなんて要らない。
 貴方は優しくご褒美をくれると仰るけど、その他大勢の人間が望むような生き汚い欲望なんて微塵も興味を惹かれない。

ただ、貴方に褒めて欲しい。貴方の傍に置いて欲しい。貴方の役に立ちたい。
ただそれだけ、ただ貴方だけの。
貴方だけ__

「あ、の……今回も……貴方のために、頑張りますね……」

 やっとの思いで告げられた決意は、絞り出すような声ではあったがしっかりとした意志を乗せて部屋の空気を震わせた。
 時計の音だけがやけに大きく頭に鳴り響くような痛いほどの沈黙。
 勢い余ってオーナーの話を断ち切るような脈絡のない事を言ってしまったと、逡巡の後気がついたジェシカは不安に耐えきれずそっと窺い見るようにチェスボードから顔を上げた。
 ジェシカの瞳に映ったオーナーは少し驚いた顔をしていたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。

「貴方のお祖父様も、私の為によく働いてくれました。勿論、貴方にも……期待していますよ」

 白い手袋に隠された手が、自分に向かって伸ばされているのが他人事のように見える。

ああ……こんな幸せがあっていいのだろうか。

「ジェシカ・ネクロ。どうぞ私を、十分楽しませてください」

 僕の頬に触れる愛しい手は、まるで氷のように冷たい。
 より近くで見る翡翠の瞳から目を逸らすことができず、ただ敬虔な信徒の様に胸の前で手を組み受け入れることしかできない。

「さて、今回のご褒美はなにがいいですか?」

 カチャリと音を立てジェシカのグラスが倒れ、飲みかけの林檎酒が真紅の絨毯に黒い染みを広げた。

ご褒美……?これ以上の幸せを享受してもいいの?
なにを、なんでも……叶えてくれる。でも美しい彼に浅ましいところを見られたくない。
でも、でも……その手で頭を優しく撫でてもらえたら……そのまま氷のように冷たい膝に頭を横たわらせて……膝枕、をしてもらえたら……!
よく頑張ったね、とその瞳に僕を映して、たくさん、褒めて欲しい……!
どうしようどうしよう……一度触れられてしまったから、その冷たさを知ってしまったから、くだらない夢にまで見たような願いが次から次へ溢れてしまう。
いけない、どうしよう……欲しい、彼からの、ご褒美が欲しい。

 オーナーが指を鳴らすと倒れたグラスも絨毯を濡らしていた染みも、最初からなにも無かったかのように消え去った。
 固まり頭から湯気が出そうなほど思考を巡らせているジェシカへ蠱惑的な笑みを浮かべると、再び問いかけた。

「貴方は、どんなご褒美が欲しいですか?」
 僕、僕は……僕が欲しいのは……
「ご……」

 ジェシカは思わずソファから身を乗り出した。テーブルにぶつかるのもチェス駒が倒れるのも、なにも気がつかぬほど、顔を真っ赤に染め今にも蕩けてしまいそうな瞳をオーナー向けまるで夢を見る乙女のように唇から言葉を紡いだ。

「ごはんを、一口……あーん、してほしい、です……」
「…………ふ、ふふ、ははははは!」

 今度こそオーナーは驚いた顔を隠しきれず一度瞬きをすると紳士らしからぬ大きな声で思わず笑いだしてしまった。

「ああ、ああ失礼。貴方を辱めることも愚かとも思っていませんよ」

 初めて聞く敬愛する者の大笑いに自分はとんでもないことを、とんだ恥ずかしいことをしてしまったのだと夢見心地から急展開、顔を真っ青にしてあわあわと謝罪を繰り返すジェシカを落ち着かせるように手で制しオーナーは謝罪を返した。

「こんなにも愛らしく健気な願いは初めてだ。本当に貴方は面白い」
「すすすす、すみません……僕、変なことを……」
「いえ、ジェシカ様。貴方へのご褒美は望み通り、私から一匙食べさせて差し上げましょう」

 オーナーは変わらず面白そうに喉で笑うと幼い子や小動物を見るように、喜びでまた頬を赤らめるジェシカを眺めた。

「とびきり甘いデザートか、貴方のお好きな林檎か……ああ、私のお気に入りのワインを共にしてもいいですね」

 先程のようにオーナーが指を鳴らすと、列を乱していたチェス駒は行儀よく整列をし、黄金の液体を波々と湛えたひやりとするグラスもなに食わぬ顔でテーブルの上に現れた。

あーんしてもらえる……!彼のために一生懸命頑張って、そうしたら彼がご褒美を……!
今にも眠っている他の人間の部屋を訪ねて仕留めて歩きたい!ああ、でもこの方への捧げ物なのだから当然、美しく着飾らなきゃ。

「もう少し話をしましょうか」
「は、はい……!」

この時間が永遠に続けばいいと思うけど、でも早く朝になって皆、捧げないと。この方のために、そしてこの方からのご褒美を貰えるように頑張らないと。

まずは、誰から捧げようかなぁ……!

 


2025,02/06. “ Happy Birthday Jessica! ”
執筆:アル