ロンドンの北部リージェンツ・パーク付近に位置するベイカーストリート
その外れにある、周りの家々と比べて随分と古めかしい赤茶レンガ造りのフラット
ヴァイオリンの音は聞こえてこず、片足の悪い同居人もいない2階の一室が彼、
エルロック・ホームズのオフィス兼住居だ
✧ Side Herlock ✧
「やあおはよう、大家代理夫人。昨日は彼氏と喧嘩した友人に付き合って遅くまで飲んでいたようだね。水を飲むことをおすすめするよ。あとその彼氏はやめておくよう友人に助言するといい」
コーヒーを飲みながらフラットの階段を降りてきたエルロックは、玄関ホールで寒そうにローブの前を合わせ冷えた朝刊に目を通している女性に声をかけた。
「ご明察名探偵。でもどんなクズ男でも盲目になっちゃってる女子には王子様に見えんのよ」
「それはいくら名探偵でも門外漢だな」
「あとうら若き乙女捕まえて誰が夫人よ。ただのお祖母ちゃんの代理大家だわスモールタイム」
眉間にシワを寄せエルロックの膝裏に強かに蹴りを入れる夫人と呼ばれた女性は、軽く舌打ちすると目を通し終わったのか朝刊を投げて寄越した。
「早く猫ちゃんでも探し行ってらしたら」
「どうも。それにしてもどうしてホームズ一族は強い女性に縁があるようだ」
膝裏をさすりながら苦笑で代理大家夫人が部屋に戻るのを見送ると、エルロックも新聞片手に少し冷えたコーヒーを飲みながら朝の猫探しの準備を整えに部屋へと踵を返した。
ここに事務所を構えてからの依頼の大半は、失せ物探し、浮気調査、時々面白い事件、時々言えない事件、そして猫探し。
猫探しの基本は早朝と夕方、大声を出さず猫のいるスポットを探す。
そして近所のボス猫に探し猫の写真を見せ、見かけたら戻るよう伝えてくれと話をする。これがメルヘンなように見えて獣医お墨付きで意外と効果があるのだから、人生ままならないものだ。
言えない事件?それは、言えないな。
「キャサリーン、キャサリン戻りたまえー。お母様が心配していたよー、キャサリーン。」
早朝のロンドン、今日は何日だったかとにかく晩秋の早朝は冷える。
コートにマフラー、真冬には届かないがそれなりに防寒していても吸い込む朝の爽やかな空気は鼻の頭が冷えて赤くなりそうな冷気だ。
残念ながら、キャサリン嬢はこの辺りの庭は好みに合わなかったみたいだな。一度事務所に戻ってコーヒーを飲んでから、近所の猫を世話してるご老人に話を聞きに行ってみるか。
来た道をゆっくりとキャサリン嬢の名を呼びながら戻ると、古めかしいフラットには少々不釣り合いな黒の高級車が停まっている。
車の横では御婦人と呼ぶにふさわしい風体の女性が、古めかしい佇まいの玄関扉と周りの家を見比べ進むべきか戻るべきか迷ったように玄関扉前の階段を登ったり降りたりしていた。
「これは、久しぶりに面白い事件が起こりそうだ……。御婦人!こちらの探偵事務所になにかご用ですか!」
急に大きな声をかけられた女性はびくりと大きく跳ね上がり、さらに悩んだような顔でエルロックを見た。
「あの、失礼ですが探偵のホームズ、様……でいらっしゃいますか?」
「ええ、勿論私がかの名探偵シャーロック・ホームズが子孫、探偵のエルロック・ホームズです、ミセス。ご主人が戻られない……行方不明でお困りですか?」
「!!何故……!何故お分かりになったの!?」
エルロックは朝食のボイルドエッグの頭にナイフを入れるのと同じくらい至極当然、と言う顔をしてまず車を指差した。
「その車は貴女のような御婦人が運転するには少々馬力が強いようだ。車が趣味なのかとも思いましたが、カスタムされたハンドルが貴女の手にはあまりに大きい」
「え、ええ……確かにあの車は主人のものです」
「車の形もそこまで古いものではない、昨年発売されたものでしょう。ご主人が急逝した様子も見受けられない」
「主人に知られたくないお話とは、お思いにならないの?」
つまらないと言うように鼻をならすとエルロックは続けた。
「だとしたら、ご主人の車を使うような少しでも疑われるリスクは減らしたいでしょう。特に貴女のような神経質な性格ならば特に。ずいぶんと深爪だ、少々伸びてはいるがその揃えられた前髪もわざわざ美容院へ月に2度は行ってるのでは?」
驚いたように咄嗟に自分の手を隠した女性にさらにエルロックは続ける。
「目の下の隈、やつれた表情は化粧では隠しきれなかったようだ。貴女ほど神経質な人がブラウスに皺も許している。前髪の伸び方からして2週間ほど前からご主人が帰らないのでしょう。それも理由も分からず、突然。そして警察に相手にされず、ここを紹介された。鹿の通った道を辿るより簡単なことだ」
女性は沈痛な面持ちで目を伏せ、絞り出すように答えた。
「はい、仰る通りですわ……。警部から聞いた通り、とても優秀な方ですのね」
「ここに来る暗い顔をした方は、軒並み彼から紹介されるようです。それも警察では手に負えない事件絡みの。さあ、外は冷えます。温かい紅茶を淹れましょう」
エルロックが紳士的にドアを開き迎えると、女性は意を決したように階段を上がった。
「ふん……では、もう一度依頼内容の確認を。Mrs.サザーランド」
探偵は窓を背にした古めかしい革張りの椅子に腰掛け、揃いの古めかしい木製のデスクに肘をつくと顎に長い指を添え、目の前に座る身なりの良い女性、Mrs.サザーランドへと言葉を促した。
「はい、細かいところは先ほども申し上げました通りですわ。私の夫はあのホテルで失踪しました……そして、それをあのホテルもヤードも隠蔽していますの」
女性は悔しさと怒り、そして嘆きを込めて探偵を睨むように強く見つめて続けた。
「私では、夫を探すことは叶いませんでした……。Mr.ホームズ、実際にお会いして貴方を信じてこちらをお渡しします。必ず、夫を見つけてください」
女性が小ぶりのポーチから受け取りだした見るからに上質の紙を使った白い封筒を受け取ると、まるで花束の側にずっと置かれていたような芳しい白百合の香りが事務所に漂った。
探偵は手に取った封筒を裏返し、そこに刻印されている名を眺めた。
「中身を見ても?」
「構いません。一度封を開けましたが、そのままにしています」
封を開けるとより白百合の香りが強くなった気がする。
「招待状……確か100周年のイベントとして、7日間をホテルでほぼ貸切で過ごせる特別な宿泊客の応募をしていたのでは?それに応募を?」
エルロックが尋ねると女性は気味の悪いものを見るように封筒を見て首を横に振った。
「まさか……夫が行方不明になってすぐ何度か話をしにホテルには出向きました。ですが、そんなところに泊まるなんて……」
「ではこの招待状は?」
「私宛に、先日自宅の郵便ポストに。警察もホテルに話を聞くだけで捜査はできないと言われ、これは夫を探すチャンスと思いました。ですが……あまりにも得体が知れなくて、私まで夫と同じく行方知れずになるかもしれないと思うと……薄情な話ですわね」
悔しそうに目の端を拭う女性にハンカチを差し出しエルロックはそっと、慰めるように肩に手を置いた。
「賢い者は危険を解決するのではなく、いち早く察知し逃げるものです。恐らく、貴女の判断は間違ってないのでしょう。それにミセス、貴女がいなくてはご主人の帰る場所がなくなってしまいますからね」
女性は少し微笑むと立ち上がり、エルロックに向かって深々と頭を下げた。
「どうか……どうか、私の夫を見つけてください」
「もちろんです。私はエルロック・ホームズ。世界に名を轟かせるのも近い、名探偵です」
依頼人の女性が少し重そうにハンドルを回し走り去るのを窓から見送り、ココアを思わせる香りのする葉が詰まったパイプに火をつけるとエルロックはゆったりと椅子に腰を下ろした。
一息つくと、改めてデスクに置かれた白百合の香りがする白い封筒を手に取り、刻印されたホテルの名に視線を走らせた。
___ホテルカサブランカ
「随分と、面白い事件が起こりそうだ」
芳しい白百合の香りを掻き消すように紫煙が漂った。
2025,01/06. “Happy Birthday Herlock!”
執筆:アル