伝統と格式高いホテルの100周年に
幸運なお客様を迎えた特別な夜の幕が閉じました
これはその幕を開け、惨劇の最中に舞台を巻き戻した
千夜一夜、素敵なキャストの紡ぐお話

✧ Side Daniel ✧



 パリン、と割れる音がした。
 小さな破片を踏んだような音は、だんだんと近づいてくる。


「えーっと、ミスター?すみません、あの方に関する人以外のことって、昔からなかなか覚えられなくって。でも大丈夫ですよ、ちゃんと綺麗にして差し上げますから」


 殴打された頭から出血が止まらない。心臓が脈打つたびに血が流れていくのがわかる。

 足音が近づく、助けは来ない。


 神様、どうか神様__


「ああ、素晴らしい敬虔な祈りですね。その祈りごと、捧げてあげましょう」









「っ、今日からお世話になります、ダニエル・コットンキャンディーと申します。これからよろしくお願いします……!」

 朝食時のキッチン。一日の中で唯一ホテルスタッフが一堂に会する場。
 デイジーに促され、顔に大きく緊張していますと書いてあるダニエルはホテルスタッフが注目する中一歩前に出ると、精一杯の挨拶と深々としたお辞儀をした。

「大丈夫大丈夫、ベルントよりしっかりしてそうじゃないか」「よろしくねー」「ベルボーイから?」「教育係はウズリフかぁ」

 忙しい中からぱちぱちと疎らな拍手と、皆食事の合間に口々に緊張するダニエルへと声をかけていく。
 あちらこちらからかかる声に、どこを向こうとわたわたしながら挨拶を返すダニエルに人懐っこい笑顔を浮かべトーストを抱えたベルントが近寄り、背中でふわりと跳ねているピンクの髪へと手を伸ばした。

「コットンキャンディみたいにふわふわですねえ」
「わ、はい!業務中は邪魔になるので一つ結びにしてますけど、少しくせ毛で」

 遊ぶようにピンクの毛先を掌でバウンドされ、少し困ったように苦笑するダニエルの肩に手を置きデイジーが声をかける。

「彼はベルント……突拍子のなさは追々慣れて。ちょうどいいから、今日は彼に着いてドアマンの仕事を経験してもらうわ」

 ダニエルは思いがけぬ指示に驚き肩を僅かに跳ねさせると、勢いよくベルントとデイジーを見比べた。

「え、いきなり人前に出るんですか!?あ、その……研修もまだですし、まだ立ち居振る舞いとか自信が……」

 不安げに萎んでいく顔に少し微笑むとデイジーは続けた。

「ダニエル、背筋を伸ばして顔を上げて。笑ってみてちょうだい」
「……え、っと、こう?ですか」

 ぴしっと背筋を伸ばしてデイジーに向かって言われたように笑顔を向ける。
 緊張は抜けきらず少しぎこちない笑顔ではあるが、ダニエル自身の人の良さや安心させるような雰囲気が溢れる天性の笑顔だった。

「そう、いいわね。最初はそこからでいいの、ベルントから荷物を受け取るでもいいわ。いいわね、ベルント?」
「もひろん!」

 幸せそうにデザートのメレンゲクッキーをしゃくしゃくと口に放り込むベルントに、緊張が溶けていったのかダニエルは思わず笑い声を上げベルントへと相槌を打った。

「ふ、あははっ!僕もメレンゲクッキー作るので分かります。軽くて甘くて美味しいですよね」




「今日は私に着いて一日業務をしていきましょう」
「よろしくお願いします!」

 ダニエルはやる気十分にメモを片手に握りしめ、デイジーに礼をした。

「大丈夫、貴方ならきっとすぐにメモ帳もいらなくなるはずよ」
「ありがとうございます。まだまだ覚えることばかりで……でも、一生懸命頑張ります!」

 自信なさげに眉を下げ笑うダニエルの後ろから、励ますように背中をぽんと強さの違う二人分の手が叩いた。

「大丈夫だって。ミスならいくらしてもフォローするからさ」
「そうですよ!ミスの数で私に勝てる人はいないので安心してください!」

 これから持ち場に向かうアイザックとベネロペが小気味いいテンポで、緊張を解すように話しかけ弾むような笑顔を向ける。
 するとふと、ベネロペがなにかに気がついたように小首を傾げた。

「髪型、変えましたか?三つ編みよく似合ってますね。可愛いです!」

「えへへ、はい……!デイジーさんに、憧れて」
「私に……?」

 思いがけぬ言葉に虚を突かれたように瞬きをするデイジーを尻目に、アイザックがわざとらしく深く頷く素振りをした。

「あぁー、分かる。クールビューティなミス・パーフェクト、って感じだもんな」
「あらー?お姉様結構可愛いところもあるんですよ?でも、確かにフロントに立つ姿が素敵ですよね」
「まったく……褒めてもなにもないわよ。ほら、さっさと業務に戻る」

 ぴしゃりと持ち場を指差され楽しそうに退散していくベネロペとアイザックに軽く溜め息を吐き、デイジーは少し居心地悪そうに眼鏡を片手で上げ直して目線だけをちらりとダニエルに向けた。

「……私こそ貴方に憧れるもの、あるのよ。でもそうね……ありがとう」




「ダニー、ラウンジの片付け終わったかー?」

「すみません!今からです!」

 ダニエルが入ってから暫く、ホテルに来てから初めての繁忙期を迎えた。
 猫の手も借りたいほどのてんてこ舞いに、手伝いをベースに仕事を覚えている最中のダニエルはついていくのがやっとだった。
 目の回る忙しさで思うように動けず、大急ぎでキッチンの手伝いを済ませるとダニエルは大慌てでラウンジへと飛び込んだ。

 そこではつい先程までラウンジを貸し切りにして団体客がアフタヌーンティーを楽しんでいた、はずだった。

「あれ……?」

 ダニエルが片付けを申し付けられてから10分ほど遅れで駆けつけ急ぎラウンジの扉を開くと、汚れた食器はおろかテーブルクロスには皺一つない。
 なにもすることがない。いつでも客人を迎えられる完璧な状態に、すでにラウンジは綺麗に整えられていた。

「まただ、いったい誰が……」

 仕事がどうしても間に合わずダニエルの手が本当に回らなくなった時。
 なにかをうっかり忘れたりミスをした時。
 必ずと言っていいほど誰かが先回りをするように、完璧に片付けや用事を終わらせてくれている事がある。

 最初は気のせいかと思っていたダニエルだったが、今回のようにフォローをしてくれている誰かがいる。
 ダニエルの知らぬそのスタッフが誰なのか、お礼を言いたいと思いそのたびに他のスタッフに聞いて回っているのだが、皆一様になにかを知っている顔で知らぬ存ぜぬと躱されてしまう。

「ふふっ、なんだかシルキーがいるみたい。誰かは分からないけど、いつも助けてくれてありがとうございます」

 誰もいない空間に向かってダニエルは帽子を取ると深く礼をし、急に思い出したように腕時計を見ると来た時と同じように今度は客室に急ぎ飛び出していった。



「……私がシルキーって、ちょっと恥ずかしいかも……。でも、お礼は生クリームじゃなくてお酒が良いです」

 飛び込んできたダニエルを見るやいなや慌てて椅子の陰に隠れひっそりと様子を窺っていたアビゲイルは「頑張ってー」と、小さく空中に呟くと擽ったそうに控えめな笑い声を上げた。




 少し閑散とした夕方。
 チッキンから漂う甘い香りに釣られて顔をのぞかせると、オーブンから焼きたてのブルーベリーパイを取り出すウズリフと目が合った。

「お疲れ様です、ダニー。よかったらパイでも食べて少し休憩しませんか?」
「いいんですか!じゃあ僕紅茶淹れてきますね」

 ベリーの酸味に合わせてどんな茶葉が良いだろうかと悩むと、ダニエルは黒い紅茶缶を取り出しそこに乾燥し小さく刻まれたオレンジの皮を混ぜ合わせ沸騰してすぐのお湯をポットに注いだ。

「いい匂いですね。キームンですか?」
「はい、キームンにオレンジピールを少しだけ。ベリーに合わせてアレンジしてみました!」

 カップに注がれた茶褐色の香り高い液体を一口、口に含むとウズリフは目を一瞬大きく見開き、すぐにまた目を細めゆっくりと感嘆にも似た息を深くついた。

「いただきます!わ、このブルーベリーパイ美味しいです……!トッピングのブルーベリーの砂糖漬けとホイップの相性が凄い、凄い美味しいです!」
「ありがとうございます。それにしても本当に、ダニーの紅茶はカサブランカ一ですね。製菓作りの腕も私も見習うところがあるほど素晴らしい」

 今度はダニエルが目を大きく見開き頬張っているパイを急いで飲みこむと、否定を示すように首を勢いよくぶんぶんと左右に振った。

「そんな!僕なんてまだまだ、ミスも多いし皆に助けられてばかりで……スヴェン様にも、お客様なのに色々なことを教えていただいて……」
「ああ、先日お泊りの際にお話していましたね」

 微笑ましそうに頷くと、また一口ウズリフはティーカップを口に運んだ。

「あの方は古くからのお客様ですからね、カサブランカの半世紀を見てくださっています。同業の先達でもいらっしゃいますし、教わることが多いでしょう」

 ティーカップをソーサーに戻すと、ウズリフは改めてダニエルへと向き直した。

「ですが、それは貴方が愛されるからですよダニー。貴方の一生懸命さに皆が手を貸そうと思い、貴方の日向のような笑顔にお客様も暖かい気持ちになる。努力し愛される貴方だから、なんですよ」
「努力し愛される……僕が……」
「そうです、ダニエル。貴方がカサブランカに来てくれて皆嬉しいです。きっと、人に好かれる貴方は将来素晴らしいバトラーになります」

 ウズリフはバターで層をなしている香り豊かな生地にサクリとフォークをいれ、溢れるブルーベリーのフィリングと照りのある焦げ茶色に湯気の立つパイを口に運ぶと納得するように頷き、茶目っ気を含んだ笑顔をダニエルへ向けた。

「カサブランカ一お菓子作りの上手いバトラーが保証するんです。大丈夫ですよ」

「えへへ、カサブランカ一紅茶を淹れるのが上手いバトラーになれるよう頑張ります!」












 糸の切れたネックレスのように、頭からぽろぽろと記憶が零れ落ちてくる。


 なんで、どうして、こんなことに……。
 痛いのかも、もうよくわからない。


 スノー様に紅茶、届けられなかったな。

 僕は、ウズリフさんみたいなバトラーに……


2025,06/03. “ Happy Birthday Daniel! ”
執筆:アル