伝統と格式高いホテルの100周年に
幸運なお客様を迎えた特別な夜の幕が閉じました。
これはその幕を開け、惨劇の始まりに舞台を巻き戻した
千夜一夜、
悔悟に一縷を願う女の幕間のお話

 


✧ Side Daisy ✧ 


 幸運を手にホテルへと招待された宿泊客の華やかで賑やかなクリスマスディナーも終わり、従業員も寝静まった深夜と早朝の間の頃。
 お客様を最初に迎えるホテルの顔にも等しいエントランスホール。チェックインカウンターの後方で乳白色を蝋燭の揺れるオレンジに染められた大理石の大階段。
 その手前で整った白い顔を尚更、蝋のように白くし生気を失ったホテルの主たるオーナー、オーウェンが横たわっている。
 傍らには驚きも悲しみも一切の感情の欠片も伺えない瞳で、デイジーがまるで王に傅くかのようにゆっくりと片膝をつき、これから自分のする行いへ溜め息にも似た短い息を吐いた。

 彩度を失ったエメラルドに手を伏せオーウェンの瞼を閉じると、利き手側でキッチンから拝借してきたエントランスにも荼毘にも不釣り合いのよく研がれ鏡面のような肉切り包丁を逆手に握りしめた。
 鈍色に光を反射する幅広く鋭い刀身に写る己の無表情を吐き捨てるように鼻で笑うと、デイジーは躊躇うことなくオーウェンの双眸に振りかぶった切っ先を沈み込ませた。
切り取り線をいれるように、幾度、振りかぶり切っ先を沈め、ただ規則的に同じ動きを繰り返す。


 水よりも僅かに温かみのある液体に己の手が濡れていくのを感じる。
 こんなものにも体温が存在していて、命と呼べる肉を動かすものが存在している。
 肉袋に満たされた溢れる温かさが不愉快。命を内包していた肉を裂く音が不愉快。
 不愉快、こんなものの思う通りに動く己自身が。


凄く、不愉快。


 完成した切り取り線に黒く喪に服した指先を差し込み表情を変えることなく「顔」であったものを持ち上げ、丁寧に大理石の上に置く。置かれたものから流れる血で乳白色にゆっくりと楕円状の赤が広がっていく。

「名前を刻まなくても誰だって貴方と判る。カルトゥーシュみたいでお似合いですわね」

 顔であった場所に自嘲気味に呟き、今しがた自分が突き立て汚れた包丁を翳すように高く持ち上げる考えるようにぼんやりと眺めた。

「心臓を抉ろうが、意味なんてないのよ」

 音を伴わない空っぽの独り言を口の中で呟くと、嫌気が差したようにそのまま空中で包丁を掌から滑り落とした。
 肉を断つに十分な重さを伴った鈍色は、重力に従い大理石に浅く傷をつけながら音を立て落ちた。
 顔だった穴からは血が湧き出すように流れ続け、百合の匂いを掻き消すように血の匂いが立ち昇ってくる。
 これから迎えるものにホテルが合わせるように、鉄の匂いが赤黒い色がエントランスホールの装いを変異させていくようだ。

 グゥ゙ゥゥン__
 突然、不穏な静寂を破るように重鈍い音が響いた。
 作業が済むのを見計らったように後方にあるエレベーターが大きな駆動音を立て動き出し、フロアを示す針がのんびりとエントランスを目指し進んでいく。
 数十秒の後こつ、こつ、と小さな足音と共に現れた楽しげな声がデイジーの背後から投げかけられた。

「お疲れ様、デイジー」
「お嬢様、まだ夢を見る時間ですよ」

 振り返らずに声を発するデイジーの横を気に留める様子もなく素通りすると、フレデリカはオーウェンを一瞥し小さな歓声を上げた。

「わあ!凄いわデイジー!」

 たっぷりのレースと格子状に組まれた真っ赤なリボンをあしらった純白のネグリジェを着たフレデリカは、水溜りのようになっている血で己の召し物を汚さぬ為カーテシーのように裾を両手でちょこんと持ち上げ死体を挟み込むようにデイジーの反対側に回り込んだ。

 しげしげと数刻前までオーナーであった死体を暫く覗き込むと、気が済んだようでフレデリカを指をパチンと鳴らした。
 お客様を出迎える美しく調和の取れた空間に異質に溢れかえっていた悪魔の血もデイジーを赤黒く濡らしていたものまで、瞬く間に最初からなにも起きていなかったかのように綺麗に消え去っていた。

「ええ、ええ!この傀儡なら皆きっとびっくりするわ」

 まるでクリスマスツリーの下に置かれたおもちゃ箱にイタズラを仕掛けたように、可愛らしくころころと笑い声を上げフレデリカは満足気に頷いた。

「お気に召していただけてなによりよ」
「とっても!きっと一番鶏が朝を告げたら素敵な一日がはじまるの。楽しみ!ね、デイジー」
「ええ……」

 ただ、グロテスクな穴だけが惨劇を物語る死体から目線を上げずデイジーは答えた。

「明日は忙しくなるんだから、デイジーも早く寝るのよ」

 デイジーの返事を待たずぴょんと死体を飛び越えると、そのまま弾む足取りでエレベーターに乗り込み来た時のようにフレデリカは4階へとご機嫌に戻っていった。


いつからだろう。

 自分の手が血みどろになるのになんの感情もわかなくなったのは。いつからだったろうか。
 目を覆いたくなる惨劇を見て嗚咽を漏らさなくなったのは。いつからだったろうか。

どこからだったかしら、なんて……今更過ぎる話ね。

 本当に私が選んだものは、いつか叶うと望んだものは正しいものだったのか。
 ああするしかなかった。そう数え切れぬ後悔をして、自分の願いに縋り立ち続けることで心すら壊れることもできない。
 あの時、悪魔の手を取らなければと目が覚めるたびに思ったけれど、それもあまりに過ぎた話。

 悔悟しても選んだことは巻き戻らなし、取り返しはつかない。
 起きてしまった過ちは戻らない、過ぎてしまった時点で自分の過去になったその罪は指を鳴らしても綺麗に消え去ったりはしない。
 後悔しないよう……同じ過ちを犯さぬよう……そうしようともがく事しか、人間にはできないの。
 後悔に対の意義を成す言葉がないのと同じように、そんな事も堕ちてしまった私にはもうできない。


 この一晩か、長い年月へか。疲れ切ったようにデイジーは立ち上がると目を伏せ、見えないなにかを耐えるように後方にある温室の扉へと重い歩みを進めた。
 疲弊した身体と心を引き摺り億劫に目線を上げると、ガラス張りの温室から光雪を受けて温室を隔てる扉のステンドグラスが優しく輝いている。

 黒い死神が人々に死を振るうより以前。
 忘れるほど昔、日曜日には家族とミサに参列し神に祈りを捧げ、ただ一人の女性として生きていた。苦しくなるほどの情景がデイジーの頭を掠めた。

 もう、自分は神に祈れない。悪魔が神に祈るための許しを、神から得られないのだから。
 それにマグダラのマリアも、こんな失楽者の後悔までは面倒見切れないでしょう。

 古い古い記憶に呼び起こされて遠い昔に諦念したはずの心が、さざ波のように押し寄せてくる。
 救いなのか許しなのか分からない強い感情に駆り立てられ咽び泣いてしまいそうになるのを、少しでも楽になろうとする己への自己嫌悪で耐えながら乱暴にテンドグラスの扉を開け放った。

 急に開け放たれた温度の違う空気は風の流れとなって、花と水の匂いを温い空気に乗せてデイジーの方へと流れてくる。
 作られた穏やかな空気を吸い深く吐き出すと、目指す低木に蔓にと絢爛に咲き誇る薔薇の花壇へ真っ直ぐに進んだ。

 「きっとあると面白い」と悪趣味に実らせられた鈴蘭を過ぎ、一際目を引くベルベットのように滑らかで大ぶりの深紅の薔薇の前に腰を屈めると、デイジーはその中で一番美しいものを一本、手折った。

 鋭い棘がさしも抗うようにデイジーの指に食い込み、指の腹から玉のように盛り上がった血が細く手を伝う。
 この夜初めてデイジーは悲しそうに薄く微笑むと薔薇を胸元に抱きしめ踵を返し、来た道を来た時よりもほんの少しだけ確かな足取りで急ぎ進んだ。


あと一時間もすれば夜が明けてしまう。
また、始まってしまう。
幸運な、お客様……。どうか少しでも苦しまないように。
どうかこの悪夢を、貶める側の都合のいい私の願いごと、打ち破って。


 デイジーは始めた時のようにオーウェンの傍らに傅くように片膝をつくと、手折った薔薇を穿たれた穴へとそっと手向けた。


これから起こる貴方達の命を弄ぶ惨劇と。
願わくば、どうか抗う者への手向けを。

 神にでもなく己の願いを叶えた悪魔にでもなく、だがなにかに祈るように棘が傷をつけた手を握りしめた。


どうか、幸運を___




2025.03/21.
執筆:アル